アフタートーク

ぐうたら村ツアーアフタートーク

お互い保育士からなるコミュニティ【パレッタブル】と【ちんたらむら】
そのメンバーで企画した、山梨県清里にある保育者のためのエコカレッジぐうたら村への2日間のツアー。


「ぐうたら村」は、八ヶ岳南麓の自然に包まれて、保育や幼児教育について学びほぐしたり、学び直したりする。そんな、保育者のための学びの場、保育者のためのリトリートの場を提供する事業をしています。
                   ぐうたら村|私たちについてより

ツアーを企画・参加したのは高泉潤、一瀬奏、山本和志、原田智広(以下、高泉、一瀬、山本、原田)の保育士4人。

ぐうたら村の管理人である小西貴士さん(ゴリさん)から伺ったお話を元に、そこで得た学びや気づきを、それぞれ一番印象に残ったキーワードを元に対談形式で生配信致しました。(一瀬途中より参加。)

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高泉:「生き物との関わり」「自己充実」「物事の学び方」
という三つのキーワードから話をしていこうかなと思います。

山本:物事の学び方気になるな。

原田:じゃあ、物事の学び方からいきますか?これは僕からのテーマなんですけど、ゴリさんからの話で一番「まさにそうだな。」と思ったのは、「学んだ者の理論と、これから学ぶ者の理論は違う。」という話なんですよね。

学んだ者は最短距離を教えようとしちゃうんだけど、実はその最短距離じゃなくて、遠回りした方が学びは深まるんじゃないかっていう話ですね。

アースオーブン作りのワークショップを例に出して、作り方を教えてパパッと作ってしまうよりも、どう作るのかを自分たちで考えて作った方が、アースオーブンの半球の形を作るために計算をして作ると。すると、自然に数学の世界に入ったりする。そうやって、いろんな学びに触れられるという話をしていましたね。

山本:あったね。

原田:最近僕の中で、保育の中でのアートとか表現活動がホットトピックなんですね。

それに関する研修とか、この前は上野の森美術館で開催しているゴッホ展に行って来たんですよ。ゴッホが27歳から画家を目指して、亡くなるまでの絵と、ゴッホに影響を与えたとされる画家の絵が展示されていました。

それを変遷で見ていくと、ゴッホの絵がすごく変化していくのがわかるんです。もともとオランダで画家を目指して、そこからフランスに行ったりもするんですけど、そこで色んな画家との出会いによって、絵が変わっていくんです。そして、晩年自分のオリジナリティを見つけていくんですよね。

それを見ていても、保育の中に当たり前にアートがあるけれども、それを「教える」っていう行為はすごく難しいなと。

ゴッホの学びのストーリーを見ていても、保育士の自分がアートにおいての最短距離なんてわかっていないなと思ったんですよね。

山本:子ども達と遊ぶときに、先生が活動を提案する時ってあると思うんですけども、そういうときに、どうやって提案しようか?っていうところからすごい悩むみたいな話かな?

原田:製作で言うと、例えば秋の製作でミノムシを作るっていう活動があったとするじゃないですか。そうなると、「ミノムシを作るまでの最短距離」を教えがちなんだけど、それをアートや表現としての活動として行うならば、ミノムシを作るがゴールではないんですよね。そう思うと、学んだ者の理論はもはや学んだ者の理論ですらないというか。

高泉:なんか哲学的ですね。

原田:そう思うと、そういった活動の時の環境や言葉のかけ方ってすごい難しいですよね。

山本:でも、わかるかもしれない。それって別にアートとか表現だけじゃなくて、その活動を自分でやる分には、自分の中に答えがあったり、ただ楽しいからやってたりするんですよね。

でも、それを保育でやるとなると、ある程度こちらから提案する上で、使う素材もこちらが準備しないと出会えなかったりとかで、結構どこまでこっちが準備するかで泥沼にはまるところではあると思います。

潤くんだったら、作るゴールではなく、その過程を大事にしたいっていう時に、どんな関わりをいいなと思いますか?

高泉:単純に考えたら、それができる常設の環境があるかなっていう所は大事ですよね。そう考えると、都心ではアートを取り入れているところが多いのは、そういう部分もあるのかなって。自然の中に出ちゃえば、それ自体が常設の環境ってなるけど、なかなか都会の中で散歩に出たとしても、それができる環境が常にあるかっていうのはあるし、ってなると、やっぱりそれをアートで代替するじゃないけど、そういう意味合いでアートを取り入れたりするところもあるのかなとは思うな。

山本:そもそも、ミノムシに限定するっていうのも、今の話で言ったら「秋の物」くらいにしておいた方が、自由度あるんじゃないかってこととか。物的にそういう素材がたくさんあったりとか、絵の具が使いやすいようになってたりとかも大事だし、ただ、そこに囚われすぎてそこがアートみたいになっちゃうみたいなところもあるから、でも目の前にいる子がどんな感じなのかっていうのを察知しつつ準備必要なところは準備しつつで、なんかを作るっていうゴールじゃなくて楽しめるところを模索したいですよね。

高泉:子ども達は当たり前として表現しているから、常に表現し続けてるんだけど、それを絵になったら表現なのか?そうじゃないんだよね、きっと。所作ひとつひとつすら表現だから。それをどういう風に捉えていくかっていう個々の保育者の見方にかかってくるよね。

山本:多分この「物事の学び方」っていうともくんが言ってくれた視点で保育に入って、一週間の遊びなり、活動なりを考えると、大分色々考えるところはありますし、その週の振り返りをした時に、「この子何も作らなかったけど、その過程は?」みたいなところにいくのかな。

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原田:ずっと喋れちゃいますね。笑

山本:ね、そろそろ次いこうか。笑
ともくんどれがいいですか?

原田:そうだね〜。自己充実かな。

高泉:自己充実は、清里全体とも言えると思うんだけど、あの場所の独特の感覚っていうのもあって、まず移住してきている人が多くて、発信が得意な人が揃っている。

ぐうたら村もそうだよね。そういうところがすごく強い地域ではあるので、もともと自己充実っていうところは意識的な人が多いのかなって思うんですけど、でもあえて都会から離れた山奥の地域でのライフスタイルを選ぶっていう。

山本:山梨の清里っていうところは、元から住んでいる人もいるけど、すごく少なくて、結構ほとんどが移住してきた人だとか、そこの風土が好きで住んでいる人が多いので、結構、地域性でいうと特殊なところですよね。

高泉:そうだよね。あえてそこを選んで生活しているっていうところと、あえてそういうところを選んで働いているっていう話でいうと、もともと東京の保育園で働いたところをやめて、清里の保育園を選んだ方もいらっしゃいましたね。

東京で働くのとだと、生活自体が変わるけど、それすら考えて行くっていうのは、仕事と生活が密着してるっていうのがあるかなって思っていて、結局その仕事である保育の充実っていうのが生活の充実であり、結果、自己充実になるっていうことなのかなと。

僕がよく言っちゃうのは、保育園で働く時に、先生として働くのか、自分らしく働くのかっていうところですね。自己充実に向かうための選択は、自分らしく働いて保育園に勤められるっていうことで、結局仕事の充実も、ニアリーイコール自己充実みたいな。

山本:そういう環境ですもんね。清里って。自分はこういう保育がしたいっていう、例えば、自然が豊かな環境で保育がしたいっていう人は清里はドンピシャそのままで、かつ、こういう生活を送りたいっていうライフスタイルも清里は結構確立されている。

もちろんビルなんてほとんどないし、ショッピングモールも映画館もないような環境の中で、そこで保育をする。また、清里は移住者が多いことから見ても、選んで人がやって来る土地ですよね。そういった土地柄の中で行う保育なので、子どもたちも、親も、地域の大人たちも、別の土地とはまた違った環境ですよね。

高泉:そういう感じかな。清里みたいな自然の中の環境がイコール自己充実ではないと思うけど、働く場所を選ぶっていうのと、自分自身の充実を同時に考えられるって、これから自分自身が持続可能になるためには、すごく大切な考え方なのかなって思うよね。

原田:なんか移住の人が多いって、主体的で自立している人が多いと思うんですよ。っていうのが住んでいる人にとって居心地がいいんだろうなって。

最近すごい思うのは、ご近所付き合いじゃないですけど、適度な距離感のある人間がいることって結構幸せだと思うんですよね。ちょっと挨拶して、少し言葉を交わして、お互い笑顔なんだけど、そこまで近くない関係。それが近すぎると、また嫉妬とかネガティブな感情が生まれやすくなるんですよね。それが生まれないくらいの適度な距離感の人に囲まれてるっていいなって思って。

それを考えると、清里って自立した人が多いから、そこが依存し過ぎないから適度な距離の人が多くて、それが別の田舎とはまた違った風土なのかなと。なんか粘っこくない気がしますね清里は。

高泉:確かにね。そういう意味で粘っこくないね。

山本:やっぱり自己充実と地域性みたいなのは、例えば、すごく機械をいじるのが好きな保育士の人だったら、都内のそういう機械系が盛んにある環境の中で、しかもそれを保育に活かせる環境だったら、多分自己充実しながらの保育とライフスタイルも送るっていうことができるんじゃなかなって思ったりしますね。

高泉:そうだよね。ICT活用するのが得意な人だったら、それがいいよね。働きやすさっていうのにも近いのかな。

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(一瀬到着。)

山本:奏ちゃんにとって、ツアーの2日間ってどうでした?

一瀬:かなり濃かったねですね。笑

まず私は、自然っていうものを私は大きく見過ぎていて、この前上高地行った時に、「あ、私自然向いてないな。」って思ったんですよね。綺麗は綺麗なんですけど、自分の中ですごい感動とかっていうのがなくて、清里行くのも緊張してたんですよ。

それがぐうたら村でゴリさんのお話を聞いてるうちに、愛おしく思えば、自然も身近になるなってすごく感じて。パレッタブルの写真部の活動としても今回写真を撮ったりしてたんですけど、写真を撮る時に、一つ一つの自然に目がいって、愛おしむ気持ちが出てきて、「自然っていいな。」ってすごく感じられた2日間でした。

山本:結構それって保育士にとって大きい気づきですよね。

高泉:それで言えば、今回の活動自体が体験学習みたいな感じでしたよね。保育のがっつりした話もしたけど、この4人自身が体験してきて、そこから得たものがすごく大きい。それをまたこのコラボの中でイベント化していきたいってところはあるね。

山本:そう意味だとこういった体験型の研修っていうんですかね。今回行ってきて、ぐうたら村でやってる畑の野菜一つ一つの個性だったり。畑もいろんな種類があるんですよね。

土の中で行われている小さな循環のこととかを伝えてもらったり、ぐうたら村で飼ってる烏骨鶏の話もしてくれて、烏骨鶏同士の人間関係じゃなく、鳥間関係っていうんですかね。笑 

そういう話が、奏ちゃんにとっては、今までは自然に対して知らなかったりとか、苦手意識があったりするところから、それを知って身近になって好きになる。それはよかったですよね。潤くんも、ともくんも、僕ももともと自然大好きですよね。

高泉:そうだね。そこのルーツがある人とはまた違った感覚で面白いよね。

一瀬:身近にそんな大きな自然っていうのがなかったので、いきなり現実として突きつけられて戸惑ったのかもしれないですね。

高泉:それで言うと、この「生き物との関わり」っていうキーワードでも繋がるよね。

山本:僕も奏ちゃんみたいに、知らなかったことを知ったみたいな話なんですけど。清里の保育園で働いている保育士さんに、「子どもたちがカエルを捕まえた時に、カゴに入れて飼ったりしないんですか?」って聞いた時に、「それはあまりなくって、だいたい見たらすぐに森に返しますね。」って話をしていました。

僕が経験した保育園だと、小さい生き物を見つけたらまず捕獲して飼いたがるっていう印象があったので、例えば、カエルを見つけたら、「この子って何食べるのかな?」って飼うこと始める子ども達。みたいなのが僕の中の一般的なイメージだったんですけど、その話を聞いて、清里の子ども達はそうなんだって思って、生き物との関わり方について、結構自分が凝り固まってたなっていうのをそこですごく感じましたね。

環境が、例えば清里だと、保育園の周りが森で、カエルなんて捕獲しなくてもそこですぐ見れるみたいな環境だと、確かに捕獲しなくてもいいなって思ったりしますね。

この話をまいちゃっていう、もう一人のちんたらむら村民の都内で保育士をしている子にしたら、逆に都内だとカエルってすごくレアだから、保育士としても子ども達に長く触れてもらいたいって思ったら、確かに飼うっていう方法もあって。

生き物との関わりっていう点で、まずその僕が捉えていた認識っていうのは、僕が知っていた世界なだけで、もっと子ども達の関わりって色々あるんだなってことと、環境によって保育士の関わり方も変わるし、子どもの関わり方も変わるなっていうのがすごい考えさせられたところでした。

10の姿で言う「自然との関わり・生命尊重」みたいなところの話でも、僕は「生命尊重って何?飼育しといて生命尊重って?」みたいなタイプなんですけど。笑 

でも、子ども達ってカエルじゃなくても、例えば、木の葉がブワーって落ちてきた時でも感動したりするから、「生き物との関わりで命の大切さについて子どもに知ってほしい。」みたいに肩に力が入っちゃうと、さっきの物事の学び方と一緒で、こっちにはゴールができちゃうわけじゃないですか。

高泉:うん。ねらいに沿ってやっていくっていうね。

山本:改めて、子ども達が命に触れるとか、自然を感じるとかっていうのを清里の保育の事例から考えなきゃなという感じですね。

原田:自然とか命についてで言うと、ゴリさんの話で思ったのは、やっぱり自然の中って、すごい死が身近だなって思いましたね。落ち葉を死骸と表現していたことが印象的で。

以前から、人の世界ってすごい人と人とが隔離されている気がしてて、それってやっぱり不自然なんだなって思いましたね。子どもは保育園、高齢者は介護施設、そして病人は病院にいるみたいな。

そして、病院にいる人は、周りの人があまり知らない内に死んでいってしまったりとか。それってあんまり死が身近な環境じゃないなって気がしてて。生命尊重っていうところも、死がもっと身近にあって、その死の意義とか循環を知ることが大切なんだと思います。

山本:もともと、暮らしの中に普通にあったことだからね。

高泉:そうだね。飼育してる時の感覚って、例えばカブトムシ飼ってて死んだってなると、その死がイベント化しちゃうんだよね。そういうものじゃなくて、もっと日常的なものだよね。

山本:そこは保育士の専門性として、死がまだ身近にない子達に対して、どうそこを環境として作るかは必要な気がしますね。

高泉:お墓作るとか、次回飼育する時にどうやったら死なないかとか、それともちょっと違うんだろうな。

山本:僕は千葉県の田舎でいるので、普通に罠に仕掛けられているところにタヌキが捕まってて、次の日それが鷹に食べられててとか。自分自身もジビエに触れたりとか、畑をやってたりしてると、そこで生活し始めて、「あ、こういうもんなんだ。」って思うところがすごくあって。

でも、それを子ども達に保育園なり、普段の生活でどう触れてもらうかっていうのは、これは面白いテーマですね。

高泉:これをもうちょっと深めて、それこそ次の企画でやりたいね。

原田:これを保育の実践に落とし込むのはかなりシビアな内容ですけどね〜。

高泉:落とし込むのは難しいかもしれないけどね。でも、この環境の中で何ができるかっていうのはあるかもしれないね。

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