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畑をはじめた理由とか


前回↓


昔、じいちゃんが山の上で畑をやっていたらしい。畑の記憶は正直あまりないけど、じいちゃんは優しかった。わたしがヤクルトと細かくちぎったチーかまをボウルになみなみに入れてつくった"お弁当"をこぼさず公園まで持っていって食べてくれたりした。わたしは手をつけずに、じいちゃんが食べるところをじっと見ていた。


じいちゃんが死ぬとき、初めて心臓マッサージをされる人間を生で見た。小学2年生、ある日の登校前の出来事だった。
学校が終わり、下校の途中に車で迎えに来た父に『じいちゃんはお空に行ったんだよ』と告げられた。

その言葉を聞いてわたしは、空なんて言葉で濁さなくても死の意味は知ってるのに!と心の中で憤慨した。

じいちゃんがいなくなってしまった事も、大人とは違う言葉で伝えられた事も、神様に祈ったのに助けてくれなかった事もとにかく悲しくて、家に帰ると白い服に着替えたじいちゃんがきれいに横たわっていて、ほら、やっぱり死んだんじゃないか!と、また黙って怒りながら、自分の部屋に閉じこもって延々と泣いた。




あれからもう20年経った。

最近になって、使ってない土地があることを母から聞いた。どうにか有効活用はできないだろうかと20年足を踏み入れていない畑を見に山を登った。

ところが、着いた先には"畑"なんてものはなく、かつてのじいちゃんの畑は完全な竹林と化していたのだった。


どうせ土地があるならみんなで野菜を育てたり、収穫したり、それを食べたりしたら楽しそうだなぁ、そんな場に出来たらいいなぁなどと安直に考えていたのだけれど、荒れ果てた竹林を見た瞬間、ちょっと面倒くさくなった。素人目に見ても、これを再生させるのは大変な作業だという事がなんとなく分かったから。


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(その時の様子。これは...畑デスカ?と思った)



やり始めたところで続くのすら分からないし、そもそも絶対にやりたいわけでもない、畑に裂く時間はあるのだろうかetc...ネガティブ要素が面倒くささに拍車をかけたが、けれどもやっぱりやろうと決めたのは、人生の中で度々訪れるやってみたいを疎かにしたくないから。もう本当それだけ。

わたしはバッグにものを詰め込むタイプだし、期間限定商品に弱いタイプだし、部屋にものが溢れかえるタイプで、たぶん期間限定の人生の中にもパンパンに経験を詰め込みたいんだと思う、部屋と同じく散らかった人生だな、、



兎にも角にもひとりじゃできない。(ひとりでやりたいとは思わないの方が正しいかもしれない。みんなが集まる畑の方がきっと楽しいから)
開墾作業もたくさんの方に手を貸して頂いて現在ここまで開けてきた。


第一回開墾作業

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第二回開墾作業

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途中経過だし、まだ畑にすらなってないのだけど一人ではここまで出来なかったことをすでにかんじる。感謝の念、、、皆様、本当にありがとうございます。



畑は本当に大変だよとよく言われるけど、結局はやってみないと実感できない。その大変さを実感したいじゃないか。やったからこそ言える"大変だよ"は、いい意味でずるい。もうなんか味わい深さすら感じる。わたしも言いたい、大変だよ〜って。
やったこともないのに言う"大変だよ"は聞く価値もないんじゃないかな。



正直やり始めたかっこいい理由や、それらしい意味がこの畑についていないと人は集まらないんじゃないかと不安にもなったのだけど、重要なのはそこじゃないなとも思った。
わたしは格好つけなのでたまに背伸びをしたくなるんだけど、気づいたら台を積み上げてその上に立とうとして落っこちたりもする。その時はかなり恥ずかしい。



わたしがロックを好きなのは、汚さや、恥ずかしさも全部含めた人間臭さがわたし自身を奮い立たせてくれるから。
正直でいいよね。楽しいこと、好きなこと、興味があることににひたすら向かえばいいじゃんね。うまく言えないけど、とにかくそういうスタンスで畑をつくっていきたいのです。

歌の歌詞が、聴いた人によってそれぞれの意味で捉えられるように、意味や価値なんてそれぞれの人間のものだ。


どんな理由を後付けしようとも、後から自分にとっての価値が見つかろうとも(やってみてからつく価値の方が多そうだ)、やってみたかったから始めた。みんなで楽しみたかった。それが原点。スタートはそこ。
ぐだぐだ考えすぎると、いろんな理由をつけてしまうタチなのでここで言っておく。

やってみたいを疎かにすると、わたしの人生はたちまち色褪せたものになる。

だから始めることにした。

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