人材業界の歴史から考えてみた

■書籍の紹介
人材業界の未来シナリオ
著者:黒田真行 佐藤雄佑

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■職業選択の広がりと採用ビジネスの歴史

「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」

”職業選択の自由”は、1946年に公布された日本国憲法第22条第1項に明文化されてから、まだ70数年しか経過していない権利です。

しかし、国民の権利として確立する前から、実際には多様な職業選択や職業移動は行われていました。職業選択をめぐる社会環境は、当然ながら、時代によって大きく変化してきました。

まずはその歴史をさかのぼってみたいと思います。

1.士農工商、江戸時代の職業構成

江戸時代が身分の違いによる格差社会であったことは周知の通りですが、これまで唱えられてきた「士農工商」という身分序列は、近年の研究では実は不正解であることが明らかになり、平成12年以降、教科書にも序列について言及されなくなっているそうです。
とはいえ、江戸時代が身分制度の世の中であったことには変わりません。基本的には職業選択の自由はなく、あくまで世襲が大原則でした。
中には、生まれたときから人として扱われないような人々が存在する差別的社会でした。

江戸時代初期の人口における職業(身分)分布は、最大多数の約8割が、村に住む百姓(農業、漁業、林業などの一次産業従事者とその家族)で占められていたそうです。村の中には、村役人(百姓の代表)として、名主、組頭、百姓代という三役で構成されていました。
また、自治と租税回収を円滑にするために、百姓や町人が連帯責任を負う五人組という制度が運用されていました。

村に住む百姓とは別に、町に住む人々が町人と呼ばれ、モノづくりをする職人や流通を担う商人の世帯で構成されていましたが、全人口の中では5%程度に過ぎず、少数はだったそうです。

町人の中の格差としては、家屋敷を所有して人に貸す「地主」や店を構える「家持」のような富裕階層と、家持商人のもとで奉公人として雇用される百姓の子どもたちの一般階層に分かれていたようです。

この「奉公人」と呼ばれる働き方が、江戸時代における”雇用”の主流だったと言ってもいいでしょう。

2.江戸時代の仕事探し

では、江戸時代の求人市場では、どのようなマッチングが行われていたのでしょうか?

当然、江戸時代には現代のように求人を扱うメディアがなく、公募という概念がありませんでした。人と仕事の出会いは、いわるゆ縁故採用や取引先からの紹介などをもらい、そこから商人や職人など、人を雇う経営者側が、親類縁者や取引先から紹介などをもらい、そこからめぼしい候補者を選んで声をかけるという流れが一般的だったそうです。

仕事上のスキルや能力よりも、身元保証が重視される時代だったので、縁が濃いほどに優先的に採用されるシステムで、紹介者がいない人たちは職にありつくことさえ難しかったようです。

しかし、そういうバックボーンがない人向けには、こういう人たちのために、都市部には口入れ屋(人材の周旋業者)が、奉公先の紹介や身元保証と交換に、給与の一部を報酬として受け取るというビジネスが存在していました。

一方、農村地方では、職さがし、人さがしの方法として「人市」というのがあり、求人者と求職者とが直接顔を合わせをして、話し合いがまとまると雇用関係を結ぶという形式になっていたそうです。

日本という小さな国で、人材紹介業がはるか昔の江戸時代から成立していた背景には、江戸という100万人都市の中央集権化と参勤交代制が大きく関係しています。当時、世界でもトップの人口を抱えていた江戸は、インフラや食糧流通で大量の労働力が必要となっていたために、人材の流通業である斡旋業が早期に成立する必要があったのでしょう。

3.明治~大正~昭和 戦争と職業選択

さて、時代は変わり、1872年(明治5年)に日本最初の日刊紙として創刊された東京日日新聞(現在の毎日新聞)の7月14日付本紙に、日本で初めてと言われる求人広告が掲載されます。

募集職種は「乳母」。日本の求人広告ビジネスはここから始まりました。

伝言板的な求人広告の形態は、明治から大正に入っても受け継がれていき、募集される職業は、見習い看護婦や女料理人、外務員、事務員などが多く掲載されていました。
また、昭和に入ると、恐慌や不況にもかかわらず、企業や商店では人材募集に力を入れたため、年々広告は増加していきました。

しかし、1936年(昭和11年)をピークに、急速にこのような広告が消滅していくことになります。

1939年(昭和14年)、第二次世界大戦が勃発。日本も一気に戦時下に突入し、求人広告も戦争一色に染まっていったのです。

「学徒勤労令」が発令されると、学生たちは一切の職業選択の自由は奪われ、「お国のため」に働くことが義務付けられることになりました。そして1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾まで終結するまで、その状況は続いたのです。

4.戦後~高度成長期 求人市場の覚醒

戦争の時代が終わり、日本経済はどん底の状況でした。1945年の鉱工業生産学は戦前の3分の1しかなく、農業の主力である米も記録的な凶作に見舞われ、ハイパーインフレで物価が激しく上昇するなど、国民経済は非常に苦しい時代が続きました。

ちなみに終戦当時の農業人口は戦前よりもはるかに多い1600万人以上に膨れ上がり、全国の全就労者の45%を占めていたそうです。
そのような状況を受けて、アメリカをはじめとする連合国は、日本における経済の民主化として、農地改革や財閥解体、教育民主化などを進め、合わせて労働基準法などの整備も進められました。

そして、どん底を一変させる出来事が1950年に起こります。
朝鮮戦争の勃発が日本に特需をもたらし、経済復興を加速させたのです。

「なべ底不況」を経て、重厚長大産業が大量生産を開始し、その消費に増大に合わせて池田勇人首相が「所得倍増計画」を打ち出すなど、国全体がベンチャー企業のように高速で回転し始め、高度成長期に突入していきました。

経済が息を吹き返すと再び戦前の人材争奪戦が復活し、都市部では学生の獲得のため、地方から都市部への「集団就職が」行われ、東京の上の駅には学生服を着た、「金の卵」たちが多く集まったそうです。

江戸時代から歴史をさかのぼっても、人材ビジネスは存在し、ビジネスモデルはその中で様々なものが派生していますが、いずれも「人材」を扱うこのビジネスはホワイトカラーで高利益を生み出せるビジネスでした。

■リクルーティングビジネスの新潮流

江戸時代から存在していた、人材ビジネス。現在もリクルーティングビジネスは大きく分けて、「ネット求人広告」と「人材紹介」の2つのビジネスモデルがあります。
その中で派生したビジネスモデルが生まれてきたものの、直近20年、この業界は大きく変わっていません。そこで改めてビジネスモデルMAPを見てみると、一つ気づくことがあります。

それは低価格帯のビジネスモデルが存在しておらず、ビジネスモデルの空白地帯があります。外部環境がこれだけ劇的に変わっているにも関わらず、競争戦略論の一つである「コストリーダーシップ」、すなわち低価格戦略に出る企業がなかったということになります。

その背景としては、扱っているものが「人材」であるということが起因していると考えられます。

採用において、採用費が安いからといって、誰でも採用しようとはなりません。なぜならば採用費以上に、採用したあとの人件費のほうが高く、失敗はしたくないという気持ちが強いからです。

しかし、ついにこの空白地帯に飛び込んできたビジネスモデルが現れました。それが「ソーシャルリクルーティング」です。
※ソーシャルリクルーティングについてはまた違う形で詳しく書きます。

直近20年変わらなかったビジネスモデルに新たなモデルが生まれたことは、採用する企業、そして求職者にも大きな影響をもたらします。

そして今後、企業は急激な少子高齢化なども加わり、「優秀な人材から選ばれた企業は継続成長し、選ばんれなかった企業は消失する」という事態が起こりえます。

■これから考えなければいけないこと


過去30年の中でも、バブル崩壊から始まり、金融ビックバン、ITバブル、リーマンショックなどがあったように、好景気と不景気の循環的な短期波動はこれからも繰り返えし発生するはずですが、人口減少が産業構造変動という長期波動の変化には揺り戻しは起こりません。

この不可逆の長期波動に対応し、「雇用する側」から「選ばれる側」への変化が企業には求められています。

直近、新型コロナウイルス感染症が全世界で蔓延し、世界的にみても経済への打撃や、それによる雇用問題が勃発しています。

そして、その救済措置として、日本でも様々な助成や補助が今後受けられるでしょう。

そして、経済が息を吹き返したとき、また人材争奪戦が起こることが予想されます。そのときに、各企業の人事/採用担当者は、いかにこの人材争奪戦で勝つことができるのかを考え、実践していかなければなりません。

前途で述べた、
「優秀な人材から選ばれた企業は継続成長し、選ばんれなかった企業は消失する」

どんなにテクノロジーが発展していても、それを動かす人材がいなければ企業は成長していきません。

歴史は繰り返すとよくいいますが、現在まで発展し成長し続けた企業は人材争奪戦を勝ち抜いてきた企業だと思います。

採用に関わるものとして、そういった企業分析を今後していきたいと思います。