DAY5.  ポジティブモンスター 


「ですから、一番考えられるストーリーとしては……」

 そう前置きをして、彼は言った。

「いま、ちょうど流産をしかかっているところで、このまま自然と流れていく、というものです」

 そして、こうも言った。

「もしくは子宮外妊娠、あるいは異所性妊娠。手術が必要になるかもしれません」

 本来、子宮に受精卵が降りたって根を張る場所ではないところに着床をしてしまう異常妊娠の可能性。きちんと処置をしなければ、私の命に関わるという。

「ただ……」

 あまり期待はしないでほしい、という顔で彼は続けた。

「非常に可能性は低いですが、このまま妊娠が継続する可能性もゼロではありません」

 一見冷たい、理知的な空気をまといながら、こちらが納得するまでとことんつき合うぞという姿勢も崩さないこの若い医師に、同じ説明をもう2、3周聞かされた気がする。

「患者さんは『妊娠を継続するためには』という視点でこの結果を見ますが、われわれは『患者さんを死なせないように』という視点で考えているので、かみ合わないところがあるかもしれませんが」

 話はそう締めくくられた。死という言葉がいとも簡単に出てきたことに少しだけ驚きながら、私は診察室をあとにする。

 コロナ禍でなければ隣で一緒に聞いてくれただろう夫は、今日も駐車場で待ってくれていた。自分のなかでも消化しきれていないものを、これから夫にうまく説明できるだろうか。この伝言ゲームもなかなかこたえる。

 4日前の検診で、子宮の中に3ミリほどの何かが見えた。そして今日、それがほんの少し、1~2ミリだけ大きくなっていて、妊娠をすると上がっていくHCGホルモンの数値も2倍近く上がっていた。

 それでも、その何かは赤ちゃんを包む「胎嚢」なのかどうかは微妙で、形もいびつ、何より小さすぎるという。ホルモンの数値も、今の時期にはもう3倍くらいになっているのが普通らしい。しかし、数値は確かに伸びている。

 もしもそれが胎嚢だったとして、それはそれで、見えている場所が正常な妊娠とはズレている。いわゆる異所性妊娠、異常妊娠の可能性が高いと医師は説明した。

 ところが、「不可解」だという。

 確率的に言うと、ただでさえ子宮外、異所性妊娠の可能性は体外受精でも全体の2~5%程度なのに、今、私の子宮の中に見えているところに着床するなんて、1万人にひとりくらいまれなことなんだそうだ。

「そんなこと、ある?」

 帰り道、運転席の夫が素っ頓狂な声を上げた。

「そんな1万人にひとりなんてのに、もし当たったんだったら。もうこの先、一生宝くじなんて当たらないよ」

 いつか宝くじに当たるためにも、今ここでそんなものに当たるわけにはいかない。


 ところどころに光をはらんだ真っ白な空から、パラパラと軽やかな音を立てて、斜めに雨が降っている。そこへだんだんゴォッとした風の音が加わり、音はバラバラと凄みを増して、どこかからキャッキャと楽し気に散っていく子どもたちの声も聞こえてきた。

「ゲリラ、来たな……」

 私はひとり呟いて、仕事場にしている自室から窓の外を眺める。いつも夫には呆れられるのだが、台風が来たりするとなんだかわくわくして、つい観察してしまう。学校が休みになることを願った幼少時代の名残りだろうか。

「あーあ」

 また、あの家の洗濯ものが干しっぱなしだ。今日は布団まで干していないのが不幸中の幸いだろう。最近ますます精度があがっているウェザーニュースアプリの存在を教えてあげたい。

 ゴォンゴォンと空が鳴り出す。雷も光り出すかと思ったら、そのままさあっと雨がやんできた。でもまだ空の上のほうではゴウゴウと音を立ててくすぶっている。今日は朝から一日中、こんな感じだ。

 検診であまりよくない結果が出た昨日、新型コロナの新規感染者数が過去最高を更新した。そんな中で、東京オリンピックでは日本人のメダルラッシュが続いている。

 私はといえば、まるでそんなちぐはぐな世の中を代表するかのように、どっちつかずな気持ちで日がな一日過ごしているのだった。

 正常妊娠の可能性が限りなくゼロに近いことは、医師の態度から重々承知している。夫にも、ちゃんとそのニュアンスが伝わるように努力をした。へたに期待はさせたくない。

「もしダメだったら、ワクチンも気兼ねなくすぐ打てると思えば、ね?」

 夫はそんなふうに言って私をなぐさめたのだった。

 そういえば5日前、最初に胎嚢らしき小さな物体が見えた検診の日に、夫は新型コロナの2回目のワクチンを接種した。2週間ほどで抗体ができるというから、これから少しはウイルスの恐怖がやわらいでいくことになる。

 世間をざわつかせているワクチンの副反応をどこか心待ちにしているようだった夫は、「腕が重い気がする」だの、「ちょっと、倦怠感があるかも?」だのと言っては、体温計を取り出して嬉々としてはかっていたが、平熱すぎる平熱をつきつけられていた。 

 最後には「もう、副反応やめた!」などと言っていたが、接種後ちょうど24時間ほど経ったところで38度の高熱が出てくる。しかしそれも解熱剤のカロナールを飲んでからは下がっていき、結果、よく言われるような1~2日の体調不良で済んだのだった。

 そんなこんなで、なんだかいろんなことが同時にバタバタと進行している感じがあって、じっくり哀しんでいる暇もなかったような気がする。

 今回がダメだったら、子どもを持つ夢はもうあきらめようか。もちろん、そんな思いも浮かんでは消えた。やっぱり、ダメなのだろうか。夜は湯船の中でひとり、しんみりとした深みにはまっていきそうになる。

 でも、最終的に。

 私はふと、母のことを思い出したのだった。それも唐突に。

「最後まで、あきらめない!」

 子どもの頃によく言われた母の言葉に、ドンと、背中を押された気がした。

 超ポジティブモンスター気味なところがある実家の母は、昔から何かと私にはっぱをかけてきた。子どもの頃はだいぶ疎ましく思っていたが、随所で必要なやる気は引き出してくれてきた気もする。

 実際に大学受験のときは、センター試験の判定でDが出てあきらめていたのを、「行くだけ行きなさい!」と半ば強引に家を出されて2次試験を受けたこともあった。記念受験的だった大本命からまさかの合格通知が来たときは、さすがに感謝したものだ。

 とはいえ、私がこうして大人になってからもそんな調子の母には、やはり辟易として、もう電話などでだんだん口やかましくなってくると、いつもそそくさと早めに話を切り上げてしまう。

 それなのに、なぜか私はこの期に及んで母のことを思い出したのだった。

 毎朝はかっている基礎体温は、いまだに高いままだ。体もいつもより熱を持ち、胸も少しはっている。たぶん、子宮の中に写っていたあのカタマリにはエネルギーが宿っている。そんな確信があった。

 そうして体の実感をとり戻すうちに、なんだか妙に腹も座ってきた。ふつふつと攻めの気持ちが湧いてくる。

 冷蔵庫から、しばらく手にしていなかったノンアルの「オールフリー」を1缶取り出した。プシュッと豪快にあけて、ぐびぐびと飲んでやる。

「よし」

 次の検診はまた3日後だ。今は、信じるしかない。

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