計画された偶発性

『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2011)の感想(レビュー)


ものすごくうるさくて、ありえないほどちかい




早速、第2回にして自分のオールタイムベストに関する話です。相変わらず、補足を付けずに読者が鑑賞済みの前提で話していくスタイルを継続していきます。

今回は、何回観ても強く胸を締め付けられる大好きな作品です。


毎回観る度に新たな発見があり、観れば観る程に好きな場面が増えるので、この映画の好きなところを挙げたらキリがないのですが。中でも最初に挙げたいのはオスカーの人間関係が非常に丁寧に描かれているところです。

お母さん、お父さん、おばあちゃん、おじいちゃん、そして、警備員。彼にとっては、その小さな世界が全て。だから、一人でも欠けると世界の五分の一が失われてしまいます。

恐らく僕も彼と似たような世界の観方をしているのですが、彼は自分の世界の外側に居る人達とは日常でほとんど会話もしないのでしょう。その分、自分の世界の内側の関係性が心の大部分を占めています。

僕の場合、家の外の景色はいつも映画を観ているような感覚になってしまいます。自分がその中に参加していることに違和感を覚えるというか。ずっとフワフワしていて、自分はどこかここではないところに居るんじゃないかという感覚。

多分、ほとんどの人は世界観がオープンで、なかなかこんな感覚にならないんじゃないかと思うのですが。自分は30年以上生きてきて、こうした閉じた世界の観方しか知りません(思い返してみれば、大学生の時に友人達に協力してもらって唯一撮ったあの映画も、物凄く閉じた世界観を持つ人達の物語でしたね)。

僕の出不精ぶりを知る人は多くないと思うのですが、簡単に説明するなら友人と食事等に出掛けたりするのは年に1回あるかどうかくらいの生活をずっとしています。陶芸家や絵本作家みたいに篭って、ただひたすら自分の作品と向き合うだけの日々が続きます。毎日同じようなルーティンの中で同じ時間が流れているだけ。その繰り返しの中で、如何に昨日よりも自分の世界観を洗練させることが出来るかという一点にのみ全神経が向かっています。

だから、例えば仕事で外に出て人前で話さなければいけない時には道化のような格好をして役者のように振る舞っていないと、とてもじゃないけど外に出て人と対話をすることが出来ません。


画像2





極稀に自分の世界観を開いてくれる人に出会うことがあるのですが、(オスカーがおじいちゃんと出会ったのと同じように)それはいつもオープンに生きることの楽しさを教えてもらえる時で。それでも少し経ったら些細なことに自分で勝手に傷付いてまた逆戻り、そんなことの繰り返しばかりですけどね。

狭い世界観しか持たないから、まだ知り合ったばかりの相手であっても物凄く頼ってしまいます。自分の中で、勝手にその人を自分の世界の一部にしようとしてしまうから。

自分と同じように人と人の繋がりを捉えている人なんてそうそう居ないのに、そのことを忘れて、いつも他人との距離感を間違えてしまって。そうして世界を開いてようやく自分の中に取り込んだと思った人が、自分の世界からすり抜けてしまうのはツラいものです。それが怖くて、新しい関係性を築くのがいつも億劫になってしまうくらいに。

だから、おじいちゃんが去ることになった時のオスカーを観ていると、その痛みがそのまま自分の痛みになってしまうくらい、ダイレクトに受け止めてしまいます。世界を奪われる苦しみは、いくつになっても受け止め切れないものです(だから、僕は秋が好きなのです。春も美しくて素晴らしい季節ですが、日本の時間軸で生きていると、どうしても感傷的になってしまいますからね)。


そんなオスカーの世界を少しでも広げようとしていたのは、彼のお父さんでした。彼が外の世界に興味を持つように、調査探検ゲームをしていました。そのお父さんが居なくなってしまって、お母さんでは埋め切れない喪失感に苦しんでいる時に、ある男性(間借り人)が目の前に現れました。

それは自分のおじいちゃんだったのですが、そんな予感を薄っすらと感じながらもオスカーはお父さんと遊んでいたのと同じように、おじいちゃんと矛盾語合戦や探検を再開していきました(そのことによって、また苦しむようになるのですが)。



ちなみに、アスペルガーは日々の行動にルール(ルーティン)を設けます。僕の場合は、数え上げたら100個くらいになるんじゃないかなと思います。それらの自分ルールが達成出来ないと、物凄く狼狽して取り乱してしまう程です。

例えば、ウチには帰宅した時にしなければいけない決まった挨拶があります。自分が言い出しっぺなので僕は無意識に自ら進んでやるのですが、他人からすると毎回漏れ無くやるのは結構面倒だと思います。だけど、これが遵守されないと僕は割りと怒ります。当初、妻がそのルーティンをうっかり忘れて、何回も喧嘩になりかけました。今でも、彼女が怒っている時にはわざとこのルーティンをしないことで僕に精神的ダメージを与えてきます。

お見送りの時にもお見送りの作法があるのですが、自分がこのままでは遅刻する!というような時でも、彼女が洗い物等で手を離せない場合はそれが終わるまでじっと待つか、時には無理矢理に作業を中断させてルーティンに付き合ってもらっています。

小学生の頃は、自分の食器を父親に一口使われただけで、その瞬間に癇癪を起して僕は頑として、もうその食事に一切手を付けなかったりしていたくらいでした。家庭の食卓であっても「醤油取って」すら言えない子供で、いつも母に目配せをしては感じ取ってもらうというようなことをしていました。そんな僕を、家族の中では母親だけが受け入れて見守りながら付き合ってくれていました。

オスカーとお母さんの関係を観ていると、そんなことが思い出させられます。オスカーにも無数のルールやルーティンがあって、それをお母さんは彼に嫌がられない距離から、自分の不安を押し殺しながらいつも見守って来たのでしょう。

だから、オスカーは彼女の優しさに甘えて、彼女の想いを想像することが出来ずに自分のことで精一杯になって、その結果として言ってはいけない言葉を口にしてしまったのだし、だからこそ、お母さんはそれに反発することなく受け入れてしまったのだと思います。誰が悪いわけでもないのに、突然大切な人を奪われてしまった悲しみは残された人達の未来をも奪ってしまいます。



そして、最後に警備員はオスカーにとって家族ではないですが、彼が軽口を叩ける貴重な存在としてマンションの入り口に鎮座しています。こうした家族以外の外界と接続する為の存在が居てくれるからこそ、オスカーは家の内と外を行ったり来たりして学校にも行けるのでしょう。映画を観るような感じではないのかもしれないけれど、オスカーにとっても世界の外側の人達と会話をするのはどこか非現実感があるのではないでしょうか。

本作を既にご覧になった方も、このような視点からもう一度観てみると、違った面白さが見えて来るかもしれません。



さて、この作品には僕がいつも息を飲んでしまうシーンが2つあります。

1つ目は、留守電にお父さんが伝言を残している間にタワーが崩壊し、同時にオスカーも崩れ落ちるシーン。

お父さんの電話に出られないのは、それを現実として受け入れられなかったからなのでしょう。TVで流れているニュース報道はどうしても現実に起きていることのようには思えなくて、自分の世界がそれと接続しているとはとても考えられない。だから、電話に出てそこに接続するという選択肢を選ぶことが出来ません。

アスペルガーは感情表現が苦手なのですが、それは感情が湧いていないからではなく、自分の感情に対する認知や整理が苦手なことが原因なのだと思います。周りを見ていても、良く皆そんなに一つの感情を選び取って外(主に顔)に表現出来るものだなと感心してしまいます。

別に感情が動いていないわけではなく、むしろそれは不安、恐怖、悲しみ、驚き、色んな感情がないまぜになって、それがずっと一つに終着しない状態でいる。そんな時には、自分の世界内に居る心から信頼している人が相手であっても向き合えずに逃げ出してしまう。自分もそうなので、崩れ落ちた彼を見ている時は自分を見ているかのような気持ちになります。


2つ目は、間借り人に対してまくし立てるように自分の話をするシーン。1つ目に書いたシーンのように、日頃から自分の感情を整理し切れなくて溜め込んでしまうのが常です。それが、ある時突然、堰を切ったように自分の中から感情が溢れ出てしまい、世界の外側に居る人を相手にとめどなく流し込んでしまうのです。それを(世界の内側の人に対しても)やりたくないから、普段は良く黙っているのですが。

このシーンは、撮り方も大変素晴らしかったですね。映像の構成もそうですが、普段は寡黙なオスカーが、言葉を発することが出来ない間借り人に対して自分の言葉を一方的に放つという構図も秀逸でした。自分の話を途中で遮られてしまうような人が相手だったら、オスカーはあんな風に自分の話をあそこまで話すことはなかったかもしれません。

オスカーとおじいちゃんの探検を見ていると、自分を客観視出来て面白いですね。僕も出掛ける時には事前に時間を区切って色々決めておきたい質だし。どこかへ行くにはプランが大事だと連呼して家族にウザがられる自分の姿と、カフェの外から店内のおじいちゃんに向かって時計を叩く彼の姿が重なります。

地下鉄に限らず乗り物は全般的に怖いし、ああいうガスマスクが自分にもあれば(付ける勇気があれば)幾分か安心出来るんだろうなと思います。街を歩く時は、上からの落下物が無いか良く空を見上げるし、橋の上を通る時はそれが崩れるイメージしかないし、空港で置き去りにされた荷物があったら最優先ですぐにそこから立ち去るし、雑踏の中ではすれ違う人々の手元ばかり見ています。

見ず知らずの通り魔がナイフを持って突然襲い掛かって来ても、どうにか避けられるように。



タイトルにもある『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』。これはオスカーが作った本のタイトルにもなっており、原作のタイトルでもあります。

しかし、作品の中でこれが何を意味するのかは明示されていません。或る調査では、この「ものすごく~」をオスカーにとってのお母さんや自分にとっての大切な人のことだと捉える観客が多かったそうです。

ただ、ここで僕はこのタイトルの意味を、彼を取り巻く外界の景色と捉えたい。オスカーが外に出るシーンに象徴的に描かれていたのですが、普通の人にとってはただの風景でしかない高層ビル、迫り来る飛行機の音、置き去りにされたリュックサック、子供達の笑い声、人々の単なる会話なんかも、彼にとっては虫眼鏡で拡大されたような近さとうるささがあります。

これは僕が最大限に共感するシーンでもあります。アスペルガーにとっては、外界の全てがおどろおどろしいものであり、一歩踏み出すのに物凄くエネルギーを必要とします。だから、彼は自分が触り続けてコントロール出来る音の出る道具(=タンバリン)を持ち歩き、恐怖に支配されそうになった時にはそれを鳴らしながら歩を進めるのです。これは今文章で書いていても心が痛いくらいに、分かり過ぎて泣いてしまいそうになります。

そんなオスカーにとって、500人近くの知らない人に会いに行くのは想像を絶するツラさがあります。学校に行けば、何でもないようなフリをして世界外の人とも普通に話せるように装っていますが、新しい人と会って会話をするのは物凄く困難なことなのです(僕もこれまで自分から友達を作れたことはほぼありません)。

お父さんへの想い、きっと父が何かメッセージを残してくれたのではないかという妄想が父親に対する渇愛となり、どうにか彼を突き動かしていました。そうやって、自分を無理矢理奮い立たせているのに、なかなか鍵に合う鍵穴は見付かりません。


そんな彼は、お父さんやおじいちゃんの導き、お母さんやおばあちゃんが温かく見守っていてくれることで、最後には見ず知らずのブラックさんにも父のことを話せるくらいに、少しだけ成長します。


彼の成長には強く勇気付けられます。

僕はまだ、彼程に外界を受け止めることが出来ていないけれども


だからこそ

この映画は、ずっといつまでも僕にとっての自分の物語でもあるのです。




自分が強く望んで、その夢の為に全てを捧げればどんな願いだって叶う。この歳になっても、僕はそんなことを本気で信じています。

だけど、外の世界では、現実的には何でも叶うわけではありません。誰もが愛する人と一緒になれるとは限らないし、自分の望む仕事を任されるとは限りません。ずっと勝ち続けられる人なんてほんの一握りです。

時には、自分が予期出来ないような事件や事故にも遭ってしまうでしょう。そんなリスクは、どこにでも溢れています。誰だってそうしたことから自分を遠ざけたいと思うものですが、誰でもが避けられるわけではありません。ほんの少し物事のタイミングがズレただけで、僕達は今とは全く違う人生を歩んでいた可能性を持っています。

受け入れ難い現実に遭遇してしまった時に、自分の中で「もしも」と問い続けても過去は変えられません。そのことに、どのように向き合うのか。



映画の中よりもずっと残酷な世界に生きる僕達は、どこまで偶発的な出来事にも意味を持たせることが出来るのでしょうね。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?