目を閉じても君が見える?

『エヴァ(EVA)』(2011)の感想(レビュー)



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8月に観たスペイン映画『エヴァ』が大変素晴らしかったです。Amazonレビューでは、『ロリータ』(1997)を連想させるというような投稿がいくつかあり、表面的な観方しかされていないことが悲しいですね。探した範囲では日本語での興味深いレビューがあまり見つからなかったので、自分の感想を記しておこうと思った次第です。

とあるインタビューで監督がこの作品は「愛の物語」であると発言していたようですが、それよりも敢えて、僕はロボットと人間の物語として見たいと感じました。

まず何よりも、ロボット執事役のマックスの演技の精巧さに感動します。動きの一つ一つに対するこだわりが凄い。全体を通して、ロボットが(人間と同じ様な)感情を持つことに焦点を当てており、2011年の映画であるにも関わらず、今観ても全く新しいです。スペインが、欧州映画に良く見られる情緒溢れるつくりを踏まえながら幻想的で美麗なこの作品を2011年に制作していたことが素晴らしいですね。


特に挙げたいのは、以下の2つのシーンです。補足情報無く内容について細かく書きますので、先に作品をご覧になることをオススメします(今ならアマゾンプライムで観られます)。


1つ目はアレックスが庭で遊ぶエヴァを柵越しに見つめるシーン。


普通に観れば、ロミオとジュリエットのように、結ばれない悲恋が描かれたシーンと捉える方が素直かもしれません。ただ、僕には動物園のアナロジーが浮かびました。今の社会ではロボットはまだ珍しいので、(動物園へ行って)柵の中の動物を人間が(物珍しく)見ているように、ロボットやアンドロイドに対しても柵に閉じ込めて鑑賞しているようなショーが世界のあちらこちらで繰り広げられています。

それなのに、このシーンでは柵の内側に居たエヴァよりも柵の外側に居るアレックスの方が何かに囚われているかのような表情をします。実は檻の中に居る動物達よりも、外側に居る我々人間の方が社会的制約に雁字搦めになっているのと同じ様に、ロボットの方がそれを創り出した人間よりもよっぽど自由に生きていくんじゃないかという未来を連想させます。

走り去るエヴァを見つめながら柵を掴むアレックスは、「ここから出してくれ」と心の中で叫んでいるように見えました。囚われているのは我々人間の方で、いつだって僕達は人間関係の中で、又は過去の記憶から身動きが取れないでいますよね。

この場面では、どちらが自分で勝手に定めた枠に捕まってしまっているのかわからないくらいでした。エヴァの吐いた嘘も、アレックスの願望を投影しており、それは自分が自分から自由になれば実現出来る未来です。

『her/世界でひとつの彼女』(2013年)や『エクス・マキナ』(2015年)においても同様に、ロボットが人間の檻から自由になる過程が描かれます。人間がロボットを作り続ける理由は、自由になることを彼等から学ぶ為にあるんじゃないかと僕には思えます。

この映画を鑑賞する数日前に観たドキュメンタリー番組(『人造人間の“私”』)では、子供達がロボットと会話するシーンがいくつか挿入されています。ロボットと人間の違いはなんだろう?という内容でロボットが質問をしながら、子供達がそれに答えていきます。


「私達は友達ですか?」と訊かれて、黙り込んでしまう子が居たり

「人間とロボットは似てると思いますか?」という質問に「似てない。だって人間は金属で出来ていないもの」と答える女の子も居ました。

番組の最後に登場した子は「ロボットはスイッチを切らない限り永遠に生きられる。永遠に生きる方が良いと思いますか?」と尋ねられた時、「ううん。人間は生きることから自由になりたいと思う時もあるから」と答えます。


ロボットはいつだって、僕達に自由で居ることの意味を教えてくれる存在なのではないでしょうか。



2つ目はラナが崖から落ちてしまうシーン。


まず映像に関して、この場面を隠喩ではなく、直接描いた監督の心意気に敬意を表したい。大抵の映画は、こうした場面においては他のものを映して死を隠喩的に伝えようとするものですからね。

しかし、それ以上に感銘を受けたのは、女性の死が描かれたということについてです。エヴァは本作の中で、一つの生命として描かれていました(その対比としてマックスをあくまでもロボットとして精緻に描いたのは秀逸です)。

世界では少しずつセクシャルマイノリティの人権が認められるようになってきましたが、未だに子供を産み育てることの壁を理由に強い反発が多く見受けられます。しかし、ロボットという生命は人間の性差が無くても生まれ得る命だということが、女性の死を描くことによってこの場面で強調されています。

実際には、アレックスは一人でエヴァを完成させることが出来ず、ラナが完成させているので、監督としては僕の捉え方の真逆で女性と男性の存在を強調したかったのかもしれません。ラナが亡くなった後にエヴァが生きることが出来なかったことからも、そう捉える方が自然でしょう。

それでも、僕の心に残ったのは女性の死を描くことによって、恋愛や両性の存在を超越した生命の誕生を想起させられたことです。


女性の社会進出と晩婚化が進み人間の子供が生まれる数が減っている未来社会で、あなたは誰とどのように生きていきますか?

そんな質問の答えについて、改めて考えたいと思いました。




序盤で学生が馬のロボットを殺したシーン(馬好きの自分にはツラい)でのアレックスの台詞も印象的です。

「一度ショートした感情の記憶は修復出来ない。

再起動して動いてもそれは同じ馬じゃない」

これは人間と何が違うのでしょうか?

僕は、ここに生命の本質があるような気がしています。

僕達は刹那的な感情の積み重ねによって人格が形成されていきます。遺伝子のプログラムがあったとしても、誰かとの出会いがなければ今日の僕はここに存在していないでしょう。この映画にも出会えなかったし、これを読んでいるあなたにも出会えていなかった。

こうして誰かの新しい一面をまた知ることが出来たからこそ、そこには新しい感情が生まれる。それこそが僕というアイデンティティの最小単位になっていくのだと思います。


僕達人間は、毎日のように夜になれば目を閉じて眠りにつきます。独りでベッドに入る孤独な夜も、誰かと一緒に過ごす穏やかな夜にも。

(本作では)ロボットは目を閉じればその生命の終わりを迎えてしまうのですが、人間の場合は幸運にもまた新しい一日が始まります。

しかし、僕達は一度眠りについてしまうと、生まれて来た感情を持続出来ません。昨日の僕と今日の僕はどこまで同じ人間なのでしょうか?

同じ自分は二度とそこには居ません。

目を閉じても目を開いていても、毎日同じ様に自分が大切に想う人(達)がこの瞳に映るとは限らないのです。



目を閉じたら誰が見える?







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