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人間関係の希薄性のハナシ。

少しテーマが大きくなるので上手く書けるか不安だ。

よく聞くのが、「今は人間関係が希薄になった」という話だ。そこまでポジティブな話題ではないのであまり深く考えたことはなかったが、つい先日までの僕は気にもしていなかった事だったと思う。

でも、よく考えてみると今は本当にそうなっていると思う。

果たして今、

隣の部屋に住んでいる人の名前が分かる人ってどれぐらいいるのだろう。

僕が子供の頃の環境を思い出してみる。団地に住んでいて決して裕福な家庭には育たなかったが、毎日が楽しかった。理由を深く考えたことはないが、おそらく、その「楽しさ」の一つの要素は、

「近所の人との関わり合い」

にあったと感じている。よく、隣の棟のお母さんが怒鳴っている声が聞こえては、「ああ、●●さんち、また怒っとうよ」と言いながら、すぐ近所の風景が切り取られ、まるで自分の生活の一部かのように感じながら過ごしていた。

でもそんな環境でも近所のおじちゃんおばちゃんに会えば挨拶するし、向こうから「最近どげんね」(あ、申し遅れたが僕は福岡なので方言で的確に再現させてもらっている)と声をかけられるし、外で遊んでうるさくしていたらよく近所のうるさくて有名なおばあちゃんに怒鳴られて一目散に逃げたりもしていた。

―ある意味、良くも悪くも「人間らしい」やり取りが日常だった。

いい意味で「おせっかい」な人たちが周りにいた。その分、例えば中学、高校となるにつれて「恥ずかしいな」「放っておいて欲しいな」とも思っていたが、普段何気なく暮らし、自然に感じる感情を共にして来たこの感覚は、なんだかんだと自分の中の「豊かな感情」が育った確実な一つの要素だと思う。

果たして、今はどうなのだろう。

よその子の行動に口出しすれば「関わらないでください」と言わんばかりの対応をされ、公園で遊んでいても「順番順番」と子供たちは親の言うとおりにする事でまるで何かの予防線を張っているかのような気がしないでもない(賛否両論はもちろん、甘んじて受け入れる)。

近所の知り合いならいいでしょ、というような弱みやダメな部分も「見せあう」関係性というよりは、「親は子供はこうあるべき」というなんだか画一化されたイメージに従っているような。

それが良い、悪いというつもりはない。それが本当の無理のない姿であればなんてことのない口出し無用な姿だと思う。

でも、そうは思えない。

もっと思った事や感じた事は言って、もっと頼って、もっとダメな部分もさらけ出して自然な姿を分け合い、時にぶつかり合っても、「あの人なんて人だ」と思っても、それでもいいと思う。

結局「仮の姿」を見せ合って「無難に切り抜ける」ような関係性なら、僕は情けない姿も見せ合っていいのではないかと思っている。

それこそが真の人間関係でありコミュニティであり、子供たちや大人も本当にいたい自分でいられる大切な要素ではないかと思う。

最後にもう一度聞く。

隣の家の人の名前を知っている人は、果たしてどれほどいるのだろうか。



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