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メタバース経済・社会学 精神による殺人(後編)

後編では、MMORPG『FINAL FANTASY XI』(FF11)で起きた外国人差別を振り返りながら、自分が差別に染まって加害者にならないにはどうしたらよいかを考えます。

ただ、真剣に差別に立ち向かっている人にはたいへん申し訳ないのですが、今回の記事では差別意識を持つこと自体はあえて否定しません。例えば、たて続けに付き合った女性に無残に捨てられた男が「女なんて……」という気持ちになってアンチフェミニズムの道に堕ちていくのを「女性すべてがそうではない」なんてお説教的に責めても声が届くとは思えないからです。外国人であれ、若者であれ、高齢者であれ、とにかく「好きではない」とか「関わり合いになりたくない」という気持ちに至るにはそれぞれに理由がありますから、それを事情も知らずに否定することは困難です。

そもそも今回の記事は、当事者としてその場に立つと、とても多くの人が差別意識に呑まれるのをこれまでに見てきた、という話です。その先にある、加害者になる人とそうでない人の違いや、差別意識が薄れていく過程を読み解くことが重要です。

差別グループに組み込まれないために

人はそれぞれ、個人ではおとなしいものです。でも、集団になると強気になり、そして責任の所在が曖昧になることもあって、個人でなら決してやらないような行動をとってしまうことがあります。ですから、仮に差別意識を持ったとしても、それを個人の胸のうちにしまっておくことが大切ではないでしょうか。

FF11の例で言えば、「外国人と行動をともにするのがイヤだ」と一度言葉にしてしまえば、周囲に同じ気持ちの人が集って疑似的なグループが形成されてしまいます。そして、そのグループに組み込まれてしまうと、外国人の振る舞いにいいところがあることに気付いたとしても誰も言い出せず、ずっと外国人への差別心をお互いに刺激し続けることになります。いわゆる「エコーチェンバー」というやつですね。

FF11はまさに「絆」をテーマに謳って始めたMMORPGで、特にその初期は雑談を主体とした集団の結成が盛んでした。ただ、他のゲームにおけるギルド(組合)的なものとは違って、FF11では所属集団のメンバー同士ではあまり行動をともにしないという特徴がありました。初期のFF11でプレイヤーの多くがやることは「レベルあげ」だったのですが、FF11はレベルが近い者同士でないと事実上レベルあげパーティーを組めないので、所属集団の外、通称「野良」でレベルの近い者同士でパーティーを組む習慣があったのです。

このため、FF11では「野良」で日本人と外国人が衝突したり、不満を募らせたりという出来事が頻繁に起き、その顛末を雑談集団で話すことによって急速に差別意識が広まりました。

さらに言えばFF11は壮絶な格差社会であったことも憎悪を駆り立てる原因になりました。例えば「戦士はすぐに誘いの声がかかるが、竜騎士や黒魔道士はあまり誘われない」という状況があり、すると竜騎士や黒魔道士は誘いがかかるのを今か今かと待つことになるわけですが、やっと誘いが来たと思ったら外国人からで、渋々誘いに乗ってみたら稼ぎが悪くて……ということが起きやすかったのです。

重要なのは、「格差」にも原因があったということです。

初期のFF11は戦士や竜騎士といったジョブの強さが非常にアンバランスで、実際に「弱い」ジョブがあったり、あるいは扱いが難しくて「弱い」とされるジョブがいくつか存在しました。そして、それらの「弱いジョブ」は決して誘ってはならないと匿名掲示板で盛んに喧伝され、誘えば匿名掲示板に名前を晒される、という恐怖が日本人プレイヤーを支配していました。

2002年にPS2で生まれた古い作品なので仕方ない側面もあるのですが、こうなった原因はFF11が極めて情報の少ない不親切なゲームであることが理由のひとつとして挙げられます。FF11では皆がネットで攻略情報を集めることが普通のことになり、なんだかんだで「匿名掲示板の世論」を共有するグループの一員になるしかなかったからです。

ところが英語圏のプレイヤーはその「匿名掲示板の世論」を共有していなかったのと、元来の大らかさによって日本人には「弱い」とされる残りもののジョブを誘ったり、日本人がこだわる「鉄板編成」を無視したりしました。実際に弱い側面も、そして日本人でも不慣れな編成ではうまくやれないという側面もあって、その結果として「外国人との稼ぎは不味い」という事実が強調されたのです。

なお、この時期には外国人嫌悪から、複数あるFF11のサーバーのうちひとつを「日本人サーバーにしよう」と移住を呼びかけ、お金を払って移転(サーバー移転は有料)していく動きが生じました。そのサーバーは絶対的に日本人比率が高まり、コミュニケーションのうえでは効果があったそうですが、なにせ差別主義者の大集団がやってきたわけですから、その後様々なトラブルが起きたそうです。そのサーバーの原住民の人たちにとっては、その集団移民こそがパレスチナにおけるイスラエルのような存在に思えたのではないでしょうか。

差別意識を低下させるには

一方、残された側の各サーバーでは、「ずっと誘われずにただ待つよりも、不味くても少しずつでも稼いだ方がいい」という考えが広まっていき、意外と「日米混成」パーティーは受け入れられるようになっていきます。また、「むしろ日本人パーティーよりも気軽でいい」という評価もありました。これはぼくも同じ思いです。でも、「外国人お断り」と言い合うグループに属していれば、彼らを見直す機会は損なわれたことでしょう。

なんでも環境の変化というのは、それに関わる人々にストレスを与え、自分に落ち度がないと感じる場合には「新顔のせい」にされるものです。そういう状況でできることがあるとすれば、それは場に慣れている側が率先してトラブルなどを防いでいくことです。FF11のおける日米混成パーティーでも、トラブルが起きそうな場面でカバーする心づもりでいると、稼ぎもムードも良くなることが少なくありませんでした。

そして、今はできないとしても、いつまでもできないわけではないのだから「この人はダメ」と結論付けないことも差別意識を和らげる分岐点ではないでしょうか。以前読書レビューを書いた『日本の反知性主義者』のなかで編者の内田樹さんが、反知性主義を決定づけるものとして「無時間性」を指摘していましたが、「今だけのストレス」を永遠に続くように決めつけ、移転する人たちまで生じさせたFF11における外国人差別は、まさに「無時間制」の賜物だと言えそうです。

 反知性主義者たちにおいては時間が流れない。それは言い換えると、「いま、ここ、私」しかないということである。反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって"威圧すること"に彼らが熱中しているからである。

『日本の反知性主義』/「反知性主義者の肖像」(内田樹)より

実際、初期の外国人プレイヤーは「初心者」だったにすぎないというごく当たり前の側面もありました。彼らもすぐにFF11に慣れていき、後続の外国人プレイヤーの面倒をみるようになると、日本人への「HELP!」依頼は減少していきます。彼らは彼らのコミュニティを形成し、やがて一時期のような日米混成パーティーも減っていきました。

「時間が解決してくれる(こともある)」と言えば、いかにも楽天的で無責任なように思えますが、すぐに拳を振り上げずに、少し待ってみることが差別主義者にならず、そして「加害」を逃れる手段になりそうです。

そう考えれば、今が永遠であるかのように「差別意識を持たない!」と決意することより、抱いた差別意識を固定せず、そして高めていかないことが重要に思えます。そして、この「差別意識を持たない!」という意志の表明もまた、いざ差別意識が芽生えたときに「これは差別ではない」と言い訳する動機になり得ることに注意が必要かもしれません。

(おしまい)

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