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書の身体、書は身体 第八回「筆順はテキトーである!?」

この記事は無料です。

止め、はね、はらい。そのひとつひとつに書き手の身体と心が見える書の世界。しかし、いつしか書は、お習字にすり替わり、美文字を競う「手書きのワープロ」と化してしまった。下手だっていいじゃないか!書家・小熊廣美氏が語る「自分だけの字」を獲得するための、身体から入る書道入門。

「お習字、好きじゃなかった」「お習字、やってこなかった」
「書はもっと違うものだろう」
  と気になる方のための、「今から」でいい、身体で考える大人の書道入門!

書の身体、書は身体

第八回「筆順はテキトーである!?」

文●小熊廣美

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筆順はいい加減に書いても、
それでもみんな大体OKかもしれない

 はじめから“いい加減”を前提としてしまいましたが、字を書くことにおいて、いわゆ る正しい筆順というのは、あるのか、ないのか、といえば、ないといってもいいのかもしれません。あるのは、

それなりの筆順

です。

 それなりとは、人間が生理的に、自然に運筆していくということです。
 今では読めない昔むかしの甲骨・金文から、現在多く用いられる楷書へという書体の変化をはじめとした、人間が文字を持ってからの長い歴史のなかで、だいたいの書く順番が、それなりに決まっていったということです。

 もちろんそんないい加減ではなく、厳格に“筆順はある”、という方もいると思います。

「右」はノから、「左」は一から。「必」は中央上の点からノへ。「発」は、フ、点、次に、右へ行ってノをひとつ書いて……。

というように。
 そう、筆順は、小学校や書塾などの基礎教育の段階で習ってきたのです。
それも紛れもない事実でしょうが、大胆に言ってしまえば、本来なくても、さして差し支えなかった筆順教育をしなくてはならない事態が、日本では明治以降起こったのです。


筆順教育は明治になってから!?

 日本では、江戸時代、寺子屋によって一般庶民まで識字率が大幅にアップして、世界一の識字率になったとか。
 その時の文字の学習は、もちろん筆文字であり、一部の唐様(からよう・中国風)書道を教えるところはあるにしろ、一般的には、書体は楷書など書きません。
では何を書いたのかと言えば、「お家流」といって、江戸幕府公認の、くずしてすらすら書く今でいう“草書体”を基本にした書体を習っていました。
 当然ですが文字は自然につながっているので、筆順を考える必要はほとんどなかったんだと思います。(一部、江戸時代の専門家の中には楷書の筆順に関しての言及もあったようですが)

 ところが明治になって、江戸幕府のお家流と決別し、唐様の楷書をもって、文字においても明治政府は江戸幕府との決別を図るのです。

 今の“楷書でよかった。草書は読めない”と思わないでください。

 とある歴史学者の先生にきいたところでは、

「江戸時代、楷書は逆に庶民には縁遠く、楷書を見せると、かえって読めなかったりもした」そうです。
 楷書中心の今の感覚からはびっくりです。

 そう考えると、われわれは今、楷書を基本としすぎているので、草書が読めないだけなのですね。このデジタル時代、その傾向はさらに進んでいく構えです。
 人間が人間らしく生きる上で、楷書だけでなく、行書や草書を使えた方が柔らかく柔軟に生きられそうですけれども。


まず、開き直って堂々と書けばいい

 さて、明治になって、楷書が基本になっていく中で、教育は、寺子屋から学校制度へと移行していきます。
 書くことにおいては、だんだん草書よりも一筆から次の一筆への筆の流れである筆路がわかりづらい楷書中心になっていきます。

 楷書では筆の流れである筆路が判りにくい。

 そうして、書く順序(筆順、書き順)を学校のなかでしっかり教える必要がでてきました。
 書く順序がそろえば、学校教育上も、漢字指導の能率を高め、児童生徒が混乱なく漢字を習得するのにいいとして、二種も三種もある筆順であっても、できるだけ統一するように指導してきたわけです。

 でも、それは、小中学校あたりの効率と基礎としての話しでもあります。

 現在、しかも、もう大人になってしまって、筆順も自分なりに身についてしまった方にとって、大事なのは、書きやすさや早く書けることなのでしょう。次に書く相手に目が向いて、意識があれば、整って書くことあたりでしょうか。

 筆文字に限れば、現在、筆文字が非日常になっていく中で、筆文字は、ただのコミュニケーションツールではありません。ネット環境ではありえない、言ってみれば、魂のコミュニケーションツールとも言えると思います。

 そういう開き直りのなかでは、書く心地よさが一番。

 早く書くこともない。むしろ、じっくり筆の弾力を感じながら、その弾力と心身で対話しながら、呼吸を感じながら、ゆっくり書いてもいいのです。そうなれば、もうこの世知辛い世の中とは縁のない豊かな世界が待っているのです。

 筆文字では、整う事は意識しても、そうならないと思うかもしれません。ただ、書き終えてみれば、筆文字では、どう書いても、それなりに魅力をもって、整うという概念を超えていけるので、堂々と自分の筆致で書いてほしいです。

 そして、筆文字は、弾力という我々の身体に似た機能があるおかげで、鉛筆やボールペンなどの硬筆類より、筆の順路を勝手に選んでくれて、筆順も分かりやすいかもしれません。時には、硬筆との筆順の違いもでてくるかもしれません。そうしたらたいしたものです。筆に任せて慣れてきた証拠かもしれません。

 文字一つのなかにあるハネやハライというものも、筆文字の弾力からの自然な動きの産物なのです。


点画概念

 ハネ、ハライなどというものも、もともと筆遣いからきた概念です。「口」を西洋の方が書けば、丨、一、丨、一か、順番は違うにしろ、四画で書く人もいると思います。もしかしたら、縦画を書いて、そこからつなげて横画の「L」。書き出しに戻って横画、縦画とつなげての「¬」の計二画で書く人もいるかもしれません。現在、我々は、だいたい、丨、┐、一と三画で書くことでしょう。
 右角を横、縦とつなげて書くことなど、そうしたいくつかの点画概念を小学校のころ学習してきて、当たり前の書き方としているのです。

 これは、楷書を基本において、ほぼ右利きの人が多い中で、右利き文化となった筆文字の一つの身体性の結果です。
 左右のハライもそうです。左払いは、右手から離れていくので、だんだん細く、右払いは、右手に近づくので、だんだん太くなっていきます(そこからさらに右手から離れるように、筆を抜くようにして細くしていくのを楷書は典型としていきますが)。

 平がなや草書などはまた別な視点も必要で、一概に言えない事ではありますが、「同」や「門」など、縦画は左下と右下で同じではなく、(特に楷書では)右下のみはねる。これも右利きの動きを基本にして、速度をもって右上がりになって、そこに安定を保とうとする造形性も含めての右下重心と右手近くにきた時の大きなハネとなって表れた姿です。

 これらは、一本の線を含めての、右利き文化の筆文字の身体性であって、それが定着した姿なのです。活字では楷書においても、その性質上、水平垂直の型を基本として成り立っているのと大きな違いです。
 長い時間をかけて右利き文化の中で育ち、美意識までを培ってきた書の世界では、左利きの人にも窮屈かもしれません。

 さて、筆順に戻って、凸凹(でこぼこ。ちなみに凹凸はオウトツ)はどう書きますか?
 時には、一筆書きをしてもいいほどの字だと思います。ですが、点画概念からいうと、いくつかの書き順ができてきます。

 部首「かんにょう・うけばこ」を意識して書くと、五画で次のように。

  

 部首を関係なくして、上から下、左から右、という大原則からみれば、五画や六画で書くのがよさそうです。でも、四画でもいけそうです。

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 しかしながら、最初に「L」を書いたりすることは楷書ではないらしく、正しくない部類に入るという見方もあります。
 実際には、点画概念を忘れて、造形物を一気に線書きするように二画三画あたりで書く書き方もありそうです。これも、点画概念を含め、“正しい”筆順とは言われないようですが。
 どこまで、筆順に詳しくなればいいのでしょうか!?

 この字に限ったことではなく、筆順は、いくつかあるものも多いのです。
「三」は、例えば何通りに書けるかというと、六通りもある。それでも、これはだいたい上から三本で書くことでいいでしょう。縦に書いて行くことが基本だった漢字文化圏ですが、これは、身体の遠くから近くに引いてくる身体性の結果と考えてもいいのだと思います。

 では「必」はどう書けばいいのでしょうか。
 上から下に、左から右へ、と、そうもいかない字ですね。

 今、日本の教育では、次のように教えます。

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 でも、古典の名跡で、書道的によく使われるのは、次。字形も自然と変わりますね。

 日本でも、この筆順で教えていた時代もあるのです。

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 今では俗な筆順の代表例のように扱われますが、戦時中ですか。“心にたすき”をかけたのは。

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 それだけではなく、中国では、台湾では、また違う筆順で書くように現在なっているときくと、びっくりです。上記のを合わせて、各国合わせると七種類もあるようです。
それだけ、人や国の都合、時の都合でも変わっているということのようです。

 ならば、少しの不安は忘れて自信を持って自分の筆順で書いて行くことで、取りあえずいいといきましょう。

 馬、耳、成、垂、発、昇…、けっこう筆順はみなさんばらばらだと思います。

 「昇」などは、いわゆる教育的指導の見地からいうと、ほぼ、みなさん、☓の部類かもしれません。「日」のあとに「ノ」を書き、そのあと「一」を書く方がほとんどではないでしょうか。これも、「升」という字の書き方からいうと、「ノ」の次に「丨」とし、次に「一」「丨」としたい字です。

 「ノ、一」とつなげて書くと、「竹」の草書体と同じになってしまいます。
 「升」そのものもそうなのですが、特に「昇」の字は、下部を、竹の草書のように「ノ、一」の順に書いても、つなげて書いても、まず間違うことが考えにくく、問題になりにくい字です。「ノ、一」の方が、自然な流れで書けるからだと思いますが、個人の問題で書きやすい方に流れた筆順の一例だと思います。厳密には、教育的に違っても、専門家筋の方々でなければ、ま、いいじゃないか、と私の中では、見過ごせる筆順の一例です。

 そういう中で、間違えてほしくない筆順というものもあります。

「右」「左」です。

 くずして書いたら、同じに見えてしまうじ字だからです。

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 ですが、これも中国・台湾では「右」も「左」も同じ筆順で、「一、ノ」の順で書くようになってきているというのですから、何が正しいかわからなくなります。
 それは、早く書いても乱れて書いても、“くずれる”いう前提がなくなりつつある今の時代の発想の中での筆順の設定のように映ります。

 もっとも、日本でも、筆順の基準を決めるにあたって、「右」も「左」も同じ書き順にしようとした意見もあったとか。「右」も「左」も同じ筆順にしたら、わかりやすかったのでしょうか?

 「右」も「左」も書き順が一緒だと、ずっと「右」と「左」の書き順が違っていた歴史の継続性もなくなります。そして字形も変わっていき、活字と同じに「左右」同じ字形に近づきます。気分は機械の歯車のようにだんだんなってきているようで、人間の尊厳を、「左右」の書き順から訴えたい気分にもなります。


形が変わる

 どうしても、発想が平凡になってしまうので、筆順を変えて制作した書の先生もいましたが、筆順を変えて書くと、基本的には形が変わります。
 動きが変われば、運動性が変わる。力学が変わるのです。
 「方」などは、筆順によって変わり方が顕著になる一例です。

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 実は防衛庁の“防”の字がそれです。標識板が元の肉筆から、その肉筆を基にして新たに作られた金属標識板に変わったため、少しは分かりづらくなったのですが、この「防」の書き順の旁「方」は、ナベブタのあと、「ノ」を先に書いた例です。

 「ノ」を先に書くと、「防」字が、ゆるキャラになり、とても日本の防衛を任す気にはなれない標識板です。その肉筆は、時の防衛大臣の筆でしたが、考えようによっては、厳格な筆になるより、「戦」感がなくなって、ノーテンキではありますが、平和的かもしれません。(いわゆる正しい筆順があやしい方は、こちらのサイトへ

​​ (防衛省の看板 from Wikipedia


大変だった統一した筆順作り

 もともと、筆順意識というのは、明時代の漢字辞典『字彙(じい)』、江戸時代の延べ五千人もの門人がいたという市川米庵あたりから著作としてあったようですが、明治になって筆順の著作も加速し、そして、ついに昭和33年、当時の文部省が『筆順の手びき』を発行し、教育者の教本となりました。

 発行にこぎつけるまでには、内部の委員になった所属団体を代表してきている立場の書家同士の筆順の違いなどあって、喧々諤々大変だったらしいのですが、小学生に解りやすく、同じような字形の場面では同じような筆順で書く配慮などで一応の推奨筆順が決まりました。

 この時は、その筆順は完全な決まり事ではなく、「その通り書かなくてもいいよ」とばかりに、他の筆順を誤りとも否定ともしないと逃げ道を作っているのですが、そうは言っても、実際の教育現場の先生は、「どれでもいい」とは教えられず、徐々にお国の決まりごとのように実際にはなっていったのだと思います。

 最近の話題ですが、文化審議会国語分科会は、常用漢字の字体・字形を幅広く認める指針をとりまとめた、ということがありました。

 それによれば、「木」の縦画は、とめてもはねてもよいなどのことです。ただ、本来はじめから、はねることを「許容」していたものが、名目だけになり、多くの現場でだんだん排除され、「木の縦画はとめる」、となっていったようです。

 さらに、「令」の下の部分を従来の肉筆の「マ」で書いたら、官公庁や金融機関の窓口で、活字体と同じように書き直すように指示されるといった問題が生じていたため、あらためて、今更に、「どっちも正解である」と本来の姿を打ち出した形になっています。

 では、筆順も、小学校で習った筆順でなくても、「どっちも正解」となる日がくるのでしょうか? これは来ないでしょう。

 ただ、『筆順指導の手びき』は学校の先生や専門家たちの指導者のために手引きであって、小(中)学校で一応の筆順を教えたら、大人になったら「後はお任せー」です。
当たり前のことですが、一般の方は、別に筆順がどうであれそれなりで済んでいるのです。

 この“それなり”の筆順の理と美というものをこの稿であらためて考えてみたいのです。文字には最低限のそう書かなければならない文字の規約があって、そこに人間が自然な流れに則り、それなりに書き進めて行くなかに、美までも見いだす感性を育てながら、、筆順も書の造形と大きく関わっていると思われます。

 学校の筆順は一つの基礎。大人になって「後はお任せ―」になってからは、時に、自分で自分の規則と理と美意識を育てながら、筆順に思いめぐらす時があっていいのでしょう。


あなたの筆順はいつ誰に影響されたのでしょうか

 筆順習慣は、当時の先生等の影響で、多少の違いはあるでしょうが、それなりの筆順を我々は、ほぼ小中学生のうちに身体にしみこませてきたのです。

 昔の教育は、読み書きそろばんを大事にし、年月を遡るほどに、黒板の板書の上手が当たり前のような先生像の傾向があったと思います。
 それでも、先生により、また、世代により、はたまた先生の影響力というなら地域性もありそうななか、筆順の違いも起こってきます。

 もう少し筆順の例をあげて、見ていきましょう。

 「書」という字も、世代や環境で筆順が違う代表例かもしれません。

1 現在、学校では、六画目に縦画を書くことを基本にしています。

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2 四画目に縦画を書く人もいると思います。年齢層は上がります。

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3 書家に多いのですが、最後に縦画を書くのもまたあるのです。

 

 前述の『筆順の手びき』には、日本の今の筆順の原則が設けてあります。
上から下へ、左から右へ、という二つの大原則のあとにある原則には“つらぬく縦画は最後”とあります。
 もともと「書」という字の縦画は「律」と同じように「聿」であって、貫く字だったのです。それが、現在、貫かなくなったので、“さて、どうしよう?”です。
貫かないならば、縦画は最後ではない。ならば、上記の「2」の書き順でもよさそうです。

 でも、本来「書」は「聿」で、縦画が貫く字だったので、上記の「1」か「3」でいいじゃないか、とも。どこを基準にするかで、筆順も変わります。
 では、形はどうなるの?

 動いて行く理と、形を作っていく意識、この兼ね合いはありますが、筆順によっても基本的には形が変わっていきます。
 「日」はもともと太陽の象形で〇の中に点を打った字です。「木」も木の象形です。

 決まった筆順はなさそうです。

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 いっぱい書いて行くうちに、速くなり、曲線が直線になり、右利きが多かったので、右利き文化として、楽な方へ自然な方へ、といったのでしょう。

 「川」も「三」もざっとこんな流れです。

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 前述の通り、現在、書き順の原則が設定してあります。ですが、後付け理論みたいなもので、例外も沢山あって、専門家以外では、覚えにくいものです。
 一応、ざっとここにあげておきます。

大原則一 上から下へ  例、「三」
大原則二 左から右へ  例、「川」

原則1 横画がさき   例、「十」
原則2、横画があと (1)「田」と田の発展したもの  例、「画」
          (2)「王」と王の発展したもの  例、「馬」
原則3 中がさき  例、「小」 例外「火」
原則4 外がわがさき  例、「国」 例外「区」
原則5 左ばらいがさき  例、「文」
原則6 つらぬくたて画は最後  例、「平」
原則7 つらぬく横画は最後  例、「女」 例外「世」
原則8 横画と左ばらい 
      (1)横画が長く、左ばらいが短い字は、左ばらいがさき。 例、「右」
      (2)横画が短く、左ばらいが長い字は、横画がさき。 例、「左」

 さらに、特に注意すべき筆順がいくつも例として載っています。
 もう、覚えられませんね。

 大原則は揺るぎませんが、横画が先だ後だとはじまって、以下、「原則3」以下も例外があったりして、実際にはわかりにくい感じがとてもありますね。

 筆順理論があって、漢字が成っていったのではなく、その時の人々が書いていく中で、だいたいの、それなりの筆順が出来あがっていき、時代から時代へ受け継がれていって、現在につながっているのだと思います。車の運転にハンドル操作の遊びがなかったら、危なくて、事故も多発しているでしょう。漢字の筆順もその遊びの部分があって、正常なのだと思います。


筆順は時代によっても変わるのだ

 先日、幕末の資料を拝見していてみつけたのですが、幕末の清河八郎(清川八郎)という方をご存じしょうか。将軍上洛の警備を名目に幕府から金を引き出し浪士組を組織し、京都に着くや「尊皇攘夷」を唱えそのまま矛先を将軍に向けた稀代の策士と言えるでしょう。

 もっともこの策は不発に終わり、そこから佐幕派の代名詞である新撰組が誕生します。時代が彼を正統に評価できているのかわかりませんが、古今の典籍を読み漁り、書道のことも詳しく書も見事。
 この清河八郎は、本名は齋藤正明というそうですが、清川村出身からか、一時期、自分の名前を「清川」と名乗っていた時期があるのですが、その名字の「川」という字を、ご本人はまん中から書いているではありませんか!

 今の感覚からしたら「え―!」で、古典にも知る限りまん中から川を書く書き順など知りません。ですが、幕末の秀才はそう書いている。

 そして、明時代の『字彙』には、まん中から書く、とある。再び「えー!」である。最古の字源字典『説文解字』を探ると、そう解釈するのが一概に間違いではない となるようですが、今の感覚からは、大原則二の“左から右へ”の大原則にも則していないものもあるのです。

 筆順は時代を泳いでいるようです。

 「筆順問題」というものもあります
 英検、漢検とおなじようなノリで、書写検定というものがあり、実技と理論があって、理論のなかで、筆順問題があります。

 ここでは、「筆順はゆるくてもいいじゃないか、そのうち、興味がわいてきたら、自然に気にしていくので、むしろ曖昧に書くより、しっかり自信を持って書いていけ」と言いたのですが、専門家筋ではそう悠長にもいきません。

 筆順の揺れの大きい字に関しては初級コースでは出題されにくいので、ちょっとおさらいをかねて「筆順問題」らしいものをやってみましょうか。

 下記にある肉筆の「火」、「昇」、「ヲ」、「や」、「情」、「垂」の六問です。左から右に見ていくと正しいですか?
 次の筆順を〇か☓かで答えてください。

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 答えは、☓、☓、☓、☓、☓、☓。みんな☓でした。

 「火」は、前述の筆順原則3の「中が先」の例外で、外からが正しい。
 「昇」は前述したとおりですが、「日」のあと、ノ、丨、─、丨です。
 片かなの「ヲ」は間違いやすいですね。もともと「乎」から部分を取ったといわれます。「フ」と 書かずに、ニ、ノの順です。

 「や」は、「也」という漢字からなった字ですが、¬、右の丨、左の丨のくずれていった姿です。

 「情」のりっしんべんも丨から書く人もいたかもしれません。
 「垂」もノ、一、一と書くのが一般的に正解。

 いかがでした?
 上記のようにしないと、書写検定ではアウトながら、犯罪ではありません。そんなこといったら防衛庁の標識板は即逮捕ですね。

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「米」は、十にてん、てん、てん、てん、と書く人もいる。字源的には米粒らしくなっていいかもしれませんが。

 現在の「米」字は、点々と左右に打ち、一、丨、最後に左右に払いが来る字となっています。それも、二画目の点は、三画目の「一」につながろうと、一画目より長くなる。下の五、六画の本来の点は、点でなくなり、左右のハライに姿を変える。それは、だんだん動き、加速し、つながっていく中で、変化しながら出来あがっていった書の身体性の表れであります。

 動いて、成っていく理と文字造形の感覚を人間は観てきながら、書が変化して書体を定着させてきたのです。
 われわれ人間は、書くことにおいて、つなげたり、省略したりしながら、今の形を共有してきました。

 もう一度、「右」と「左」をみていきましょう。

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 「右」と「左」は、活字だと横の長さも同じですが、肉筆では大きく異なります。筆順が形を変えるのです。そこにも、書くことにおいての身体性がうかがえるのです。
 「右」 ノ 一 と書くと、スピードに乗った二画目の横画はエネルギーが多く長くなる傾向になります。

 「左」 一 ノ と書くと、スピードに乗った二画目の縦斜め画はエネルギーが多く長く傾向になります。
 ついでにいうと右の「口」、左の「工」は、くずすと似てくる。だから尚、筆順の違いが必要のように思えます。
 この「左」「右」は、字源的に解説すると解り易い字ですが、これも筆順説明の方便にすぎません。

 「友」は、その字源的理屈から言うと、図を観ていただくとわかりますが「ノ、一、又」の字ですが、今「一、ノ、又」と書くのが一般的だと思います。もともと「又、又」の字形が隷書時代に「一、ノ、又」の筆順に変化していった字です。

 「田」も日本では、内側の「土」の部分を、「丨、一、一」と書くことを基本にしています。古典からの草書のくずした形の動きです。
 でも、内側を「一、丨、一」と書く方もいると思います。これは、中国の今の書き方と同じです。
 内側を「一、一、丨」も書き方としてはありますが、「日」に「丨」となり、雑に書くと「申」や「甲」や「由」になる可能性が大きいので、推奨はできません。ただ、それでも、そこを、気をつける意識があれば、それも一概に否定はできないのかもしれません。

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 きちんとした方はきちんとしない方をみると、気になってしょうがないことが多いように、きちんとした筆順で書く人は、変わった筆順で書く方をみると気になってしかたないという人も多いと思うのですが、許す精神を今、そこここで持たないと、疲れきってしまう世の中ですね。

 私自身は現在、変わった筆順をみると、おもしろいなー、と感心してしまうことがあります。私の知人のなかでは、国際審判員の資格を持つ元卓球選手のおばさまは、基本からいうと、とんでもない。みていて、面白いです。「下」を書けば、─、点、|という具合。そんなのは序の口です。いつか紹介してみたいです。

 私もよく、「角」のまん中の縦画を最後に書いて、つきだして書きます。小学校では、☓。大人でも一般的には☓でしょうか。

 でも、そんな書き方があるのが、書の世界です。古典に則ってもいるのです。字源をみても、飛び出してはいない字が、隷書あたりで飛び出したりして、楷書の典型の初唐では、飛び出した「角」がむしろ普通だったのです。

 最後に、「む」からみえてくる筆順を示します。

 「む」の字母は、解りづらいですが「武」です。
 今なら「二」を書いて「止」を書いから、次にいきます。ですが、その筆順だと「む」にはならなかったはずです。その昔は「二」の後に、中央上から右下に長く伸ばし、最後に「止」を書いた字でした。

 「成」もそうです。今は「ノ、一、フ」から、中央上から右下に長く伸ばしますが、その昔、「ノ、戈」の順で、戈の途中に「フ」を書く感じです。
 「成」など、草書がどうしてそうなるか、疑問に思う字ですが、昔の書き順に合わせると、よくわからない草書も自然に見えてきます。もっとも草書は、楷書をくずして出来た字ではありません。隷書から草書への展開で、楷書よりも草書の方が成立は早いのです。

​​ (む、成の草書までの変化)


自分らしい運筆からみえてくる筆順へ

 ここでは、いかに自然に書くか、を気にしています。最低守らなければいけない制約はありますが、五七五という枠のなかでの俳句のようなもので、それでも自由です。そこに、造形的な美意識を養いながら進める文字文化は、漢字文化圏や日本文化の洗練さを示す場でもあり、取り組み方によっては心と身体の作用によって、素晴らしいものとなると思います。

 書は、思いっきり書くのがいい。こころのままに書くのがいい。
 そういう意味では、しっかり書いてりゃいい。

 書は人間の身体活動のなかで発達してきたものでありますし、本来持っている自然な大いなる力のなかに在るという思いが私にはあります。そんなことを踏まえていく中で、自然と興味が湧いてきたら筆順にもこだわってみてほしいと思います。
そこにはご自身の身体性と、漢字や平がなの歴史性や国民性までもあるのです。意識すれば、もう大丈夫。書写検定で間違いはあっても、混沌とした社会では、いちがいに間違いにしなくてもよし。

 筆順だけでなく、間違った字として判断されても、それでも、前後左右の文脈で判断する。また、思いやりで判断するのが、書の中で学ぶ教養と人間性でもあると思います。
 「変しい、変しい」を、「恋しい、恋しい」と文脈によっては読める力が、人間の心です。

 書き順意識を持つ書家や教育者には違和感が付きまとうことでしょうが、ここの読者の大多数の書や書き方の素人を自任する方々はおおいに大胆になればいいと思います。
おさらいすると、筆順から観えてくるものは、上から下につながるほど、だんだん運動は大きくなる傾向にあり、左から右へ、だんだん大きくなる。

 さらに、右利き文化(左から右へ引く一本の線、右あがり、右下のハネ、左払いは細くなり、右払いは太くなる等)が見えてくる。
 時代で形と動きの揺れが大きい時があって、書く方向や順番が変わっていくことも多いにあった。なにを大事にするかで、まとまらないなかにも国の違いもみえてくる。

 筆の弾力と対話しながら、筆の理、文字の理を身体で感じながら、ゆっくり書いていれば、自ずと文字に親しくなり、今まで気づかなかったことに気づいていくでしょう。
 そんなところから、筆順にも興味を持って、自分らしい運筆で書いていってほしいと思います。


(第八回 了)

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-- Profile --

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著者●小熊廣美(Hiromi Oguma)
雅号●日々軌

1958年埼玉生まれ。高校時代に昭和の名筆手島右卿の臨書作品を観て右卿の書線に憧れ、日本書道専門学校本科入学。研究科にて手島右卿の指導を受ける。
その後北京師範学院留学、中国各地の碑石を巡る。その後、国内ほかパリ、上海、韓国、ハンガリーなどで作品を発表してきた。

書の在りかたを、芸術などと偏狭に定義せず総合的な文化の集積回路として捉え、伝統的免状類から広告用筆文字まで広いジャンルの揮毫を請け負う。そして、子どもから大人までの各種ワークショップやイベント、定期教室において、また、書や美術関連の原稿執筆を通じ、書の啓蒙に務めながら、書の美を模索している規格外遊墨民を自認している。

〈墨アカデミア主宰、一般財団法人柳澤君江文化財団運営委員、池袋コミュニティカレッジ・NHK学園くにたちオープンスクール講師など〉

web site 「小熊廣美の書の世界」

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