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「やんちゃ坊主」8月12日


彼が保険のセールスを始めた頃は保険のセールスと言えば、女性がほとんどであった。

その中に、時々、男の人も混じっている。

所長さんではない、新米のウダツの上がらないのセールスである。

そんな人の話である。

T君は、所長が大学の先輩と言うことで、ある営業所のセールスになった。

T君は、営業というものを全然知らなかった。

人が良いのが取り柄の彼には、強者おばちゃんそろいの保険セールスは厳しかった。

親兄弟に当たってみたものの誰も入ってくれなかった。

当たり前である。

彼自身、それまで、保険の営業をバカにしていたのだから。

仕方なしに飛び込み訪問を始めた。

1日100軒の訪問を重ねたが、ほとんどは門前払いだった。

「人の良い彼には無理なのかもしれない」

そういう囁き声が聞こえ始めた。

上手く行かなくなると、コースは決まっている。
朝から喫茶店でさぼり始める。

時には、家でベンチで昼寝。

そんな駄目セールスの習性を知っている所長の目をごまかすことも覚えてくる。

締め切り間際になると、所長の罵声が耳に響く。

あまり度が過ぎると、「辞めます」というと、
「まあまあ」と言う。所長も辛い立場なのだ。

売り上げは上げねばならないし、辞めさせる訳にはいかないし。

人の良い彼は悩んだ。

「続けるべきかやめるべきか」

そのとき、ちょっと年上の証券マンのM君に出会った。

何処で会ったかというと、図書館だった。

変な話である保険と証券の営業マンが、図書館で出会うなんて。

それも、昼間に。

妙に気のあった二人は、近くの古い公会堂の地下にあるレストランでカレーライスを食べることになった。

お昼時というのに客は、この二人だけだ。

このレストランのカレーが異常に旨かった。

M君は言った。

「ある超一流ホテルのシェフだった人が、ここのマスターだ」と。

天皇陛下も泊まるホテルである。

M君は、朝、始発電車で営業に行き、犬と散歩中のお客さんを捕まえて、
そのまま、お客さんの家でモーニングを
ごちそうになり、
もちろん契約も頂き、
朝8時50分に出社して、

「ノルマ達成しましたので、本日は、直帰します」

と上司に言って、毎日、図書館に来ているそうだ。

M君は、斜めに座って、蛇のようにギョロッと睨みをきかせて、
「君は真面目そうだね」
「はい、よく言われます」
「いい子ちゃんじゃ駄目だよ。やんちゃ坊主になって、常識以上の事をしなくちゃ」
とも言った。

T君の頭には、「やんちゃ坊主」妙にこの言葉が響いた。

M君は、支店のトップセールスだった。いや社内でもトップだった。

この話を聞いてから、T君も毎日、図書館に来るようになった。

2、3ヶ月後、T君は、夕方から夜中の十二時に契約を取り、
朝、報告して、図書館に来るようになっていた。

彼も営業所のトップになっていた。

朝型と夜型の二人は、時には本をよみ、時には夢を語り合った。

そんな付き合いが、1年続いた。

二人の姿が図書館から消えた。

それから、10数年。

T君は、保険会社を10年前に辞めて、ある会社の社長になっていた。

彼は、ホテルのロビーで、経済ニュースを見ていた

懐かしい名前を見つけた。

あの証券会社のM君は、ある外資系証券会社で何億も稼いでいる注目人物として、紹介されていた

そこには、また、あの言葉があった。

「まだまだ、やんちゃ坊主ですよ」

T君は、また、あの図書館に行きたくなった。

そして、あのカレーライスを食べたくなった。

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