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戦後の日本文化における岡本太郎先生の3つ目の役割

戦後の日本文化における岡本太郎先生の3つ目の役割を話します。

我が国が戦後の復興を成し遂げ、
資本主義社会の先進国である欧米に追いついたことを国民と世界に示す1970年の大阪万国博覧会で、
シンボルとしての役割を担いました。

万博のテーマ「人類の進歩と調和」のコンテクストを創ったのは、
京都大学の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者である梅棹忠男(1920〜2010)と
東京大学の文化人類学者である泉靖一(1915〜1970)です。

その2人によって太郎先生がチーフプロデューサーに選ばれ、
テーマ館を地上が人類の現代、天空は人類の未来、地下は人類の過去や根源と位置づけ、
地下に諸民族の生の資料を展示する見事な構想を立てました。

先生がテーマ館のチーフプロデューサーに推されたのは、
前に記したパリ大学に留学し1937年のパリ万博を体験していたからです。

パリ万博の終了後跡地に、民族学博物館が生まれ変わった
人間博物館(ミュゼドロンム)が建てられたことに倣って、大阪万博では国立民族博物館が残りました。
この辺りのことは藍野裕之著「梅棹忠男」(山と渓谷社)に詳しく書かれています。

太郎先生は丹下健三が設計したお祭り広場の「大屋根」を突き破る「太陽の塔」を創りました。
今春修復工事を経て一般公開されていますが、
あらためて見直すと高さ70メートルの塔の外形も内部に鎮座する生物の進化を立体化した生命樹も
漫画的でアート作品としてはイマイチです。

梅棹らがテーマの「人類の進歩と調和」に含めた
「多文化主義の理想と理想に近づけない現状」の批評性が先生の漫画的表現に吸収されてしまたからです。

後に国民は「芸術は爆発だ!」というタレント的なキャラクターとして岡本太郎を
みるようになったことと相似的であると思います。

私個人の大阪万博のイメージは、開催前にトーンダウンしていました。
万博に作品を出展する高松次郎(1936〜1998)先生の手伝いで1969年に建設中の会場を訪ねたとき、
ブルドーザーによって破壊された千里の自然を見たからです。私は開催しても行く気になりませんでした。
理由は解りませんが、父も行きませんでした。

後に梅棹が残した民博を訪ね万博の意義を知り万博の印象は変わりましたが、
沖縄海洋博覧会の惨状をみてやはり国家プロジェクトの難しさを痛感しました。
太郎先生のその後は戦後の日本文化における役割を終え、前衛芸術家のキャラクターを演じ続けたように思えてなりません。

さて2025年の万国博覧会に再び大阪が立候補を表明しています。
1988年に大阪市が市制100年記念事業として「テクノポート大阪」を計画し新都心を生み出そうと
数千億を投じて失敗した人工島夢洲の再開発するためです。
梅棹や泉のようなコンセプターに誰がなり、
岡本先生のようなプロデューサーにだれがなるのか興味はありますが、
残されたわずかな日本の余力をフローに終わらせずストックを蓄えるプロジェクトに向けて欲しいものです。

今回で岡本太郎の項を終わらせます。

※写真は映画『太陽の塔』のサウンドトラックより

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