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放送大学大学院(16) 修士2年の春~夏 「放送大学大学院」で「学術」の学位を取得するということを考える。

■久しぶりのゼミ

修士2年4月。久しぶりのゼミ。修士1年が入学し賑やかになった。他のゼミ生は経済学理論、金融政策、経済法制とバラエティに富んでいる。ゼミで発表を聴いていても基礎知識を共有していないので質問するのは難しい。逆に、質問されたときは、自分の研究に新たな角度から光が当たった気がした。

■「学術」の学位とは

「僕はこのゼミに入れてもらったけど、本当に良かったのか?異端ではないのか?」とふと考えた。経済学の知識がないため、ガチな経済学の議論にはついていけなかったからだ。これを契機に、修士論文に臨む姿勢を考えた。

僕の軸足は行政法だ。法律による行政の原理侵害留保説に問題意識を有しながらも、僕の力では、法律学のアプローチによっては解決策は提示できないと感じていた。ゆえに、法学を基礎としながらも、経済学や行政学との接続領域で研究しようとした訳だ。実際、ゼミに参加し、他の領域の知見は僕の見識を広げた。経済学ではなく行政学に傾いたのは結果論だ。

■学際性を目指す

学際性は入学前から意識していた。放送大学で得られる学位が「学術」だからだ。この学位は学際分野での研究に与えられるから、上記のようなスタンスが求められていると考えたのだ。

社会に出て仕事で使えるような資格を取得した頃から法学系の本ばかり読むようになった。学問としての法学は面白いが、「社会科学」の学士を取った頃から「学際性」に惹かれるようになった。特に小室直樹や大澤真幸の著作を読んだ際には、その幅広い知識と見識の面白さに舌を巻き、憧れるようになった。

学際性といっても「薄く広く」というのは好みではない。法学など1つの分野の専門を持った上で、それのみに特化するのではなく、周辺の知識をたくわえ、法学を頂上とする山のような知識体系を得たいと考えていた。そうこうして、僕は放送大学で「学術」の修士をとることを決めたのだった。

■「放送大学」で研究する意味

僕は学部を出て就職した社会人だ。20年近く働いている。そのうち6年くらいは放送大学の学部の科目履修生をしたり、学位を取得したりという"エセ"研究生活だった。しかし、普通にストレートで大学院に進み、研究の世界に身を置いてきた若手研究者と比べれば、理論における議論は、及ばないだろう。

では僕が研究をする意味は何だろうか?若手の後塵を拝さず、キラリと光るにはどうしたらいいか?そう考えたとき、「社会人としての経験や視点」を活かして、課題を分析し、研究しようと思った。アカデミズムしか知らない学生には書けないような修士論文を書こうと思ったのだ。

実務者にしか解らないものがある。現実の組織というものは必ずしも清廉でも合理的でもない。信じられないくらいバカバカしいことも少なくない。ストレートで大学院に入り学ぶ若者は、世界は合理的な経済人ばかりだと思っているのではないだろうか?

実際はそうではない。朝のTV番組の占いを見て株を買うような人もいる。「現実の世の中ってのはな、思ったほど合理的なモデルでは説明できないんだぜ」そんなことを言いたいのだ。

実務者と研究者の鵺的な存在。それが我が活路であろう。放送大学大学院の沿革や学生層を考えれば、理論×実務の学術論文こそ、「らしい」と言えるのではないだろうか。

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