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アリ・アスターの描く不快感について

※この記事はアリ・アスター監督の作品(ヘレデタリー、ミッドサマー、ボーはおそれている)の結末にほんのり触れています。がっつりネタバレしているわけではありませんが、未視聴の方はご注意ください。

こんにちは。穂積です。

先日「ボーはおそれている」という映画を見ました。
3時間とにかく、ひたすら、ずっと、嫌あああなことが起こり続ける映画です。

監督は「ヘレデタリー/継承」「ミッドサマー」でお馴染みのアリ・アスター。
この監督はどうしてこんなにも人が抱く不安定さを描くのが上手いのか…。

かねてよりアリ・アスター監督の映画は好きだったので、
「ボーはおそれている」も楽しみにしていました。

感想としては…気持ち悪い!!(褒めてる)
でもその気持ち悪さは「ヘレデタリー」「ミッドサマー」と毛色が違うような。
その毛色の違い、をちょっと語らせてください。

アリ・アスター監督、少なくとも日本では新進気鋭のホラー映画監督、
というポジションを築いていたと思います。
とにかく映画の不快感がすごい(褒めてる)、そんな評価だった気がする。

私も「ヘレデタリー」「ミッドサマー」を鑑賞して、
確かに得体の知れないものに対する不快感というかざらっと感がすごかった。

しかもその不快感ってポルターガイスト的な出来事や幽霊に対するものじゃない。よく知らない土地の地元の人やはたまた家族だったり、
ちょっとヒトコワ的な要素があると思うんですね。
そういう意味では中島哲也監督の「来る」にも似てるかも。
(中島監督も負の感情を描くのが上手いですよねえ)

ただアリ・アスター監督の作品には救いの要素も強いと思うんです。
登場人物たちの精神的な不安定さが、ある出来事(それがオカルト的なものや信仰だったりするわけですが)によって増幅するけれども、その出来事を許容することで救いを得る物語だと感じました。

(そんな感想を友達に語ったら「人生大丈夫そ?」と心配されましたが…。)

登場人物の不安定さ、常識であれば逃げてしまいそうなある出来事を
なぜか許容してしまう展開。
見る側はそのアンバランスさに対して不快感を覚えるんじゃないかと。
もしくは不快感の中にもちょっとした爽快感、納得感があるような。

でも「ボーはおそれている」は前2作と違って、
許容がないなと思ったんですよね。

主人公・ボーは不安症を抱えていて、
母親の訃報を聞いて実家に帰ろうとするわけですが
嫌ああああな出来事が連続してちっとも実家に辿りつかない。
しかもやっとの思いで帰ってきたと思ったらまさかの事実が。

ボーの身に起こる嫌ああああな出来事は、
現実なのかボーの不安症が見せる幻想なのか微妙なところですが
ボーはその出来事に怯え続けます。
そしてずっと自分が被害者だという顔をする(ように見えました)。

これまでのアリ・アスター作品ならむしろこれらの不幸な出来事を受け入れて、
ゴリゴリ加害者側に回るくらいしそうなのに。

いやもしかすると母親から見たらボーは加害者なのかも知れませんが、
ボーは多分自分の加害性に気がついていない(もしくは見ないふりをしている)。

嫌あああな出来事がただひたすら起こり続けて、
明らかに精神的なバランスが取れていない男がパニックを起こし続ける映画。

それを3時間も見続けさせられるこの「ボーはおそれている」は、
前2作と比べて耐久レースに近い不快感であり不条理感が強い映画なのかなと感じました。


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