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封筒と麻袋に入った米を受け取ると、幸尾は胸の前でギュッと抱いた。それから幸尾は、

 封筒と麻袋に入った米を受け取ると、幸尾は胸の前でギュッと抱いた。それから幸尾は、その場でクルクル回った。お礼の言葉を知らなかったのだ。しかめ面だった女将はやっと少し笑って
「いいから、早くおかえり」
 と、追い払うような手の仕草をつけて言った。
 幸尾はゆっくりと歩き出す。米の存在、その重みを感じながら、ゆっくりと動き出す。陽が傾きかけていた。西の山へ隠れつつある太陽は、来た時とは違う日差しを田んぼへ注ぎ、田園風景を更に濃い黄金色に変えていった。チャパチャパと金の粉が舞い立つ。とんぼが一匹、幸尾の腕に止まった。幸尾は、そのままとんぼに気づかれないように静かにゆっくり歩いた。あぜ道が終わり人家のある路地へ入る所まで、とんぼはくっついていた。田んぼはもうなくなるよ、お家へおかえり、そうとんぼに伝えようとした。その時だった。
 突然背後から「ドン!」と鉄砲のような音が鳴った。今まで静かで平和だった世界が一変した。幸尾は、突然の爆音に飛び上がり、その衝撃で足が絡まり転んでしまった。とんぼは幸尾から飛び立った。何が起こったのかわからなかった。が、それはほんの一瞬の出来事だった。
 米が、幸尾の腕の中にあったはずの米が、ドブ川へ吸い込まれ、流れていった。汚水の中に吸い込まれた白い米が、さらさらと一瞬にして消えていく。もう何をしても遅い。追いかけてもすでに流れてしまった。そもそも小さな米を川から拾い上げる事など不可能だ。すでに運命は定められている。どうしようもできない、争ったところで何にもならない、無駄、無駄、無意味、全ての事柄は素直に諦めるしかないのだ。バラバラになって流れていく米を眺めながら、幸尾は言語化されない何かをふと理解した。それは、本質的な運命だったのかもしれない。幸尾は、まるまるとした赤いほっぺを揺らして泣いた。顔をしわくちゃにして、泣いた。熟れた柿のように泣いた。米がドブに流れてしまった絶望感と、大きな音にただただ驚いたという赤ちゃんみたいな理由もあった。太陽が西の山へ無慈悲に沈んだ。熱源を奪われた辺り一帯は薄暗く冷え込み始め、小さな幸尾の体から体温を奪った。
 深山に走らん。

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