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雪を含んだ風が、山から冷たく吹き付ける。足元にはうっすらと絹のような雪が積もり始めていた。

 雪を含んだ風が、山から強く吹き付け、足元にはうっすらと絹のような雪が積もり始めていた。幸尾の足先は寒風にさらされ冷たさで傷んだ。野良犬が一匹、木の幹に向かって腰を振っていた。
「わかる、僕わかるで」
 父親が何を言いたかったのか、幸尾はよくわからなかったが、元気良くそう答えた。
「よしゃ、幸ちゃんはええ子だなあ。さっすがおらの子だあ」
 父はすっとんきょんな声を出して言った。ビュッと風が一段と強く吹きつけた。幸尾は父の首元に深く顔をうずめた。首にかけられた父の手ぬぐいが鼻にあたる。幸尾は自らの息で鼻周辺が熱くなるのがしめっぽく面白く、父親の歩く振動を上下に感じながら、視界を遮られた世界を楽しんだ。湿気っぽさの中、ウトウトと眠気が襲ってくる。父の背中の温かさと、心地いい揺れによって、全身の力が抜けてきた。やがて背中へしがみつく力が弱くなり、ずり落ちそうになるのを父親がヨイショ、と担ぎ直したその時だった。幸尾の小さな足から長靴がすっぽと抜け、田んぼ脇のドブ川へ落ちた。ぽちゃむ。
「あ!」
 幸尾は途端に目を覚まして、声を上げた。赤い小さな長靴が、どんぶらこっこと水流に乗って流れ流れていく。兄と姉のお下がりだったその長靴は、特別幸尾のお気に入りだったわけではない。が、みるみるうちに小さくなって遠く流れていく赤い長靴は、幸尾を悲しく寂しい気持ちでいっぱいにさせた。
「おっとう、靴が、おらの靴があ」
 幸尾は涙声で父親に訴えた。
 ドブ川の中を鮮やかな赤色が流れていくのを目にした父親は、
「よしゃ、おっとうに任せとき」
 そう言うと、幸尾を負ぶったまま、幸尾を上下に揺すりながら走った。しかし、用水路の流れは思ったよりも早く、なかなか追いつけなかった。このままでは長靴はどんどん流されていってしまう、父親は幸尾を背中から下ろすと「ちょっこしまっとり」と残し、全速力で駆け、長靴を追い越し、先回りして凍てつくドブ川の中へ手を突っ込んだ。そこへどんぴしゃりと赤い長靴が父の手の内へ収まった。父は、長靴の中から水を捨て、立ったまま泣きじゃくっている幸尾の元へ戻ると、
「ほれ、幸ちゃん、見い、もうでーじょぶだ。安心するだ。もう泣かんでええすけ、泣かんでええ、でーじょぶだ。な。」
 と幸尾の濡れた頬を拭きながら声をかけた。父の手は、氷のように冷たかった。幸尾は、それでも嗚咽が止まらなく、なぜ自分でもこんなに泣いているのかわからないほどだった。涙は出ておらず、声だけ出していたような気もする。一度泣き始めると、そんな自分の姿に感化され、いつまでもいつまでも泣き喚いてしまう。そういう事が幸尾にはたまにあった。
「なーにいつまで泣いてるだ。幸ちゃん、おっとう、寒くてこたえるわ。はよ帰って、おっかあの暖かいご飯食べようや」
 そう言って父は、まだべそかく幸尾をサッと背負うと、幸尾の上からスッポリと半纏をまとった。裸足になった幸尾の小さな足先が、半纏の外に出ないように工夫して。父の体温と自分の体温が半纏の中で重なる。幸尾は、こわばっていた体の緊張がほぐれ、雪降る夕暮れとは思えないほどの暖かさを感じた。どこからともなく訪れる眠気のベールが再度幸尾を包んでいき、父親は幸尾のすうすうという寝息を耳元で聞いた。ゆっくり、ゆっくり、雪降る中を確実に進みながら。

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