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[2023.12.25]カポーティ「クリスマスの思い出」を読む

クリスマスを彩る小説の最後は、トルーマン・カポーティ「クリスマスの思い出」(村上春樹訳)。
ここを過ぎれば一気に年の瀬だが、年末年始を迎えても「季節感」がないと感じることの理由のひとつは、われわれがハレの日のために手間ヒマをかけなくなったことにあるのではないか。

いつからわれわれは、年始の準備に時間をとられないようにしてきたんだろう。それでもやっぱり、クリスマスや正月が来るのは心踊るものだ。それが子供であったなら、なおさら。
この短編の主人公・バディー少年も、そのひとりである。

毎年11月の終わりごろになると、スックおばさん(もう60歳だ)はクリスマス用のフルーツケーキを大量につくるために台所に立ちはじめる。おばさんとバディーは遠い親戚だが、アラバマ州の田舎町で、いろんな事情から一緒に暮らしている。

スックおばさんはそれらのケーキを売るのではなく、親しい人たちにいつも贈る。送り先のリストには大統領の名前もあるくらい。
おばさんとバディー少年、そして飼い犬のクイニーは、この日のために1年間ちょっとずつ貯えてきたカネをとりだして、ケーキをつくるための準備にとりかかる。
森に入ってピーカンの実を拾いにいったり、禁止されているウィスキーをこっそりもらいに行ったり。

クリスマスの準備はとにかく忙しいけれど、ふたりと一匹はわいわい支度をしていく。
なんとかケーキを焼きおえたら、今度はクリスマスツリーの準備にはいる。森のなかの、二人だけの秘密の場所で、目星をつけておいた樅の樹を切り出してくるのだ。
それを家まで引きずってきて、飾り付けをし、ようやくクリスマスを迎える準備が整うと、ふたりは興奮してなかなか寝付けなくなってしまう。

「バディー、起きてるかい?」と僕の親友が壁ごしに声をかける。彼女の部屋は僕の部屋の隣にある。そして次の瞬間には、彼女は蝋燭を手に僕のベッドに腰掛けている。
「ああ、私はこれっぽっちも眠れやしないよ」と彼女は宣言する。
「私の心は野ウサギみたいにぴょんぴょん跳ねてる。ねえバディー、どう思う? ローズヴェルト夫人は明日の夕食の席に私たちのケーキを出すだろうかねえ」僕らはベッドの上で肩を寄せ合う。
彼女は僕の手をとても優しく握りしめる。「お前の手も以前はもっとずっと小さかったような気がするねえ。お前が大きくなっていくことが、私には悲しい。お前が大きくなっても、私たちはずっと友達でいられるだろうかねえ」。
ずっと友達さ、と僕は答える。

なけなしの貯え(それはわずかに12ドルばかりだ)を、ケーキ作りとその発送代に費やしてしまったふたりには、お互いへのプレゼントを贈るだけの余裕はなかった。

そこでバディーは、ふたり分の凧をつくる。

クリスマス当日、待っていたかのように風が吹きはじめ、バディーとおばさんは凧揚げをしにでかける。
そして、凧揚げの最中に、おばさんはふと悟る。まるで、神様からのプレゼントのように。

「誓ってもいいけれどね、最後の最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちの前にそのお姿を現わしていらっしゃったんだということを。物事のあるがままの姿」ー彼女の手はぐるりと輪を描く。雲や凧や草や、骨を埋めた地面を前足で掻いているクイーニーなんかを残らず指し示すようにー「人がいつも目にしてきたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ。私はね、今日という日を目に焼きつけたまま、今ここでぽっくりと死んでしまってもかまわないよ」

そのクリスマスは、バディー少年が7歳のときの思い出だ。
まるでツリーに飾り付けられたデコレーションのように、静謐で慈しみにあふれたクリスマスが具体的であざやかな色彩をもつ言葉や事物で描かれ、貧しい中に豊かさを感じさせるエピソードになっている。

けれど、ふたりの幸せな時間は長くは続かない。
その予兆が、ふたりの高揚を示した凧揚げのシーンにさりげなく挿入されている。

風が吹いている。僕らはとるものもとりあえず家の下の方の牧草地まで走っていく。そこではクイーニーが一足先に来ていて、骨を埋めるための穴を掘っている(翌年の冬にはクイーニー自身もそこに埋められることになる)。

至福の時がいつまでも続かないこと、そしてふと姿を垣間見せる主人公たちの不幸を、カポーティは読み手にさりげなくにおわせる。
やがてその予兆のままに、バディー少年とおばさんは離れ離れになることになる。このエピソードのクリスマスはふたりにとっての最後のクリスマスだったのだ。

人生が僕らの間を裂いてしまう。わけ知り顔の連中が、僕は寄宿学校に入るべきだと決める。そして軍隊式の獄舎と、起床ラッパに支配された冷酷なサマー・キャンプを惨めにたらいまわしにされることになる。新しい家も与えられる。でもそんなものは家とは呼べない。家というのは友だちがいるところなのだ。なのに僕はそこから遥かに隔てられている。

そして、おばさんも昔のようにはケーキはつくれなくなり、やがてこの世を去っていくことになる。

まさにそのとき、それが起こったことが僕にはわかる。その電報の文面も、僕の秘密の水脈がすでに受け取っていた知らせを裏付けただけに過ぎない。その知らせは僕という人間のかけがえないのない一部を切り落とし、それを切れた凧のように空を放ってしまう。
だからこそ僕はこの十二月のとくべつな日の朝に学校の校庭を歩き、空を見わたしているのだ。心臓のかたちに似たふたつの迷い凧が、足早に天国に向かう姿が見えるのではないかという気がして。

評論家の川本三郎は、アメリカ文学の底流には「無垢(イノセンス)への想い」があると指摘した。

自分はすでに汚れてしまった、もう元の場所に帰ることはできない・・・しかし自分は汚れたという喪失と堕落の強い自覚があるからこそ逆に「無垢」に対する憧憬は人一倍強くなる。

川本三郎『フィールド・オブ・イノセンス』(河出文庫)

作家カポーティの人生は派手でスキャンダラスで、厄介だった。
それを誰よりも解っていたのはカポーティ自身であり、バディー少年のような「無垢」な存在にはもう戻れないことも解っていた。
それでもなお、いやだからこそ自分の人生において、無垢なる存在の象徴だったバディー少年への想いは強かったに違いない。

カポーティが死の床について、最期に口にした言葉は「バディー」だったという。
それを受けてかどうか、彼の死を見届けた、友達で女医のジョアン・カーソンは彼の葬儀のときにこの「クリスマスの思い出」を朗読した。



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