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まい すとーりー(23)本間一夫と日本点字図書館

霊友会法友文庫点字図書館 館長  岩上義則
『法友文庫だより』2015年秋号から


日本点字図書館が誕生した意味

 日本点字図書館(以下、日点)は、日本で最初にできた点字図書館です。
 本を自由に読めることはとても楽しいし幸せなことですので、それが、目が見えないために叶えられないとしたら、やはり大きな不幸です。その意味で、点字図書館が誕生したのは、間違いなく視覚障がい者にとって福音だったと言っても過言ではないでしょう。

 日点が創立されたのは昭和15年11月10日。創立者は、25歳の盲青年・本間一夫でした。その年、日本は紀元2600年の奉祝に酔いしれていましたが、軍国日本のアジアへの進行が日を追って激しさを増していたため、アジアの当事国やアメリカの反発が、それに比例して強まっており、一触即発の状況にありました。

 そんな年に、東京市豊島区雑司が谷の2階建て4間の借家で日点が産声を上げたのです。
 書棚4本、机一つ、椅子2脚、点字本700冊。これが、日本初の点字図書館の姿でした。しかも、そこにある点字図書は、限られた出版図書だけであって、今後、それをどのように増やしていくのか、何一つ具体策を持たない、お先真っ暗な図書館でした。
 そんなときに、パッと希望の明かりを灯す人が表われたのです。「希望社」、「心の家」などの教育組織を主催していた社会教育家の後藤静香がその人です。
 後藤は、進んで点字を学び、自分の著書を次々と点訳する一方、同志に呼びかけて晴眼者(目の健常な人)を対象にした点字講習会を、昭和15年11月3日を第1回として、毎月2度欠かさず開いたのでした。これが、日本における点訳奉仕運動の始まりです。その後、昭和17年4月1日に受講者のメンバーが「大日本点訳奉仕団」を結成するのですが、そこから生まれた多くの点訳書が全て日点の貴重な蔵書となって読者を引き付け、そのスタートを順調なものにしたのです。

 本間一夫は、昭和18年に現在地、新宿区高田馬場に自前の図書館を建てましたが、20年5月の空襲により全焼してしまいます。幸いだったのは、本間一夫夫妻と点字図書が茨城県へ、さらには郷里北海道の増毛へと疎開していて無事だったことです。

 終戦後、昭和23年に日点は東京に戻って再出発するのですが、点訳運動も復活しました。戦後といえば、日本国民は日常の食糧にさえ事欠く生活でしたが、そんなときにも奉仕者の熱い善意は燃え盛り、点訳が続けられ、経済的支援も日点に寄せられたのです。

 そのようにして、日点は成長していくのですが、飛躍させたのは、29年に図書製作の事業と図書館の増築に厚生省が予算を計上したことでした。点字図書館に国費が付いたことは、単に日点の図書が増え、財政を潤しただけに止まらず、作られた点字図書が、まだ全国に少なかった点字図書館にも配られて、地域においても盲人の読書を盛んにする基礎づくりに役立ったのでした。

 このように、日点によって点訳の普及が進んだり、国費が付いたりしたことは、日点が全国の点字図書館のリーダー的図書館として認められ、頼られる存在になったことを意味します。

 

本間一夫について

 佐渡郷土の会が刊行する『佐渡郷土文化』(第138号)に、「本間泰蔵とその孫一夫-豪商の祖父と点字図書館を創設した孫-」として掲載されたことは、髙野編集長が書かれた通りです。
 泰蔵は、佐渡から、明治もまだ10年代に北海道の西海岸増毛に渡ってきて、そこに住みつきました。豪商と称された泰蔵でしたが、最初は小間物を小樽から山越で背負ってきて、商店を開いていたようです。やがて、造り酒屋を始め、ニシンの網元などにもなって、一夫が生まれた大正の初め頃は、なかなか手広く仕事をしていたようです。

 その泰蔵には2男1女がありましたが、娘に商売を継がせたかったのか、一人娘に養子を迎えました。そして、その夫婦の間に生まれたのが一夫だったのです。一夫は順調に育っていったのですが、母親は、父親からうつされたとされる結核にかかって、約1年後に死んでしまいます。そのため、一夫は叔父夫婦に育てられるのですが、そのことを19歳まで知らされずにきたというのですから意外です。

 それはともかく、一夫は5歳のときに脳膜炎を患って失明してしまいます。名医を訪ね、神社・仏閣に祈願し、加持祈祷にも頼るのですが、結局光は戻らず、就学が遅れて、13歳になって小学校に入学したのでした。

 一夫が入学したのは函館盲唖院でしたが、そこで点字に出合いました。それは、一夫にとっては天にも昇る喜びでした。そこにある本を、読んで読んで読み尽くしましたが、その後に感じたのは、読みたい本があまりにも少ないという現実でした。
 天にも昇る喜びが一転して、厚い不安の雲に覆われたのです。しかし、本間一夫に点字図書館作りを決意させたのは、この厚い不安の雲だったと言えます。「不安の雲を吹き飛ばせば、そこにサンサンと陽が照り渡る」。その確信があったればこそ向学心を高めて関西学院に入学し、偉大な先輩たちとも交わるなどして、夢を追いかけたのでしょう。

 

私と本間一夫の出会い

 私が日点に就職したのは昭和40年ですが、本間との出会いはそれ以前に、郷里の金沢でありました。
 私が小学校3年生のときですから、10歳になったばかりの夏のことでした。本間が盲学校へ講演に来たのです。内容は全く覚えていませんが、大きな手の本間と握手したことをはっきり記憶しています。日点へ入る面接の際にその話をしましたが、本間は講演の事実は覚えていたものの、私と握手したことは全然覚えていてくれませんでした。
「ああ、金沢には古い点訳者で、旭信一さんという人がいらしてね」と、別の話題にすり替えられてしまいました。何だか話をはぐらかされたようで、就職の実現は無理かなと不安を感じましたが、はぐらかされたというのは私の思い違いでした。
 本間一夫という人は、何につけても奉仕者のこと、支援者のことを第1に考える人なので、金沢と聞いただけで点訳者に思いが飛んでいったに過ぎなかったのです。

 そのように、本間は人を大事にする人柄ですから、周囲にはいつも人が寄ってきましたし、呼ばれれば、どんな遠隔地へも出かけて行って、できる限り、その地域にお住まいの点訳者や支援者と懇談していたようです。

 私にとって思い出深いのは、勤め帰りの録音ボランティアのことです。
 日点は夜9時過ぎまでスタジオを開放しているので、毎日ボランティアが来館します。2時間ほどの奉仕が終わって帰るとき、その時間になってもまだ執務している本間を訪ねてきて、ひとしきり話に花を咲かせるのでした。私は、一日おきに日点の風呂へ入って帰宅したので、よくその場面に出合ったのですが、「この人たちは奉仕を目的に来るのだろうけれど、本間に会うことを、より楽しみにして来るのではなかろうか」と思わせるほど頻繁に来訪者があり、楽しげな談笑が聞こえていました。
 また、本間はお菓子が好物でしたから、銘菓の差し入れも多く、時が過ぎるのを忘れて盛り上がる、茶会のような雰囲気になっていたものです。

 このように、本間には誰もが親しみと誠実さを感じ、それが点字図書館を応援しようという気持ちにさせるので、日点を支える原点は、まさに人であったのだと確信させてくれます。

 

愛の点字図書館長

 本間一夫について『愛の点字図書館長』という本を出した、池田澄子さんという人がいます。池田さんの言葉を引用しておきましょう。

 世の中にはさまざまな事情で、1人では背負いきれない苦しみを持っている人がたくさんいます。そういう人々に幸せを少し分けてくださる人を「ボランティア」と呼んでいます。もちろん、たくさん分けてくださる人もいます。でも、あり余っているから分けるのではなく、大切なものだから「あなたにも」と言って、肩の荷をちょっと背負ってくださるのです。
 ボランティアの中には自分が病気であったり、家に障がいのある家族がいたりする人も少なくありません。自身の厳しい経験から、心の痛みがわかる人たちになられたのでしょう。

 日本点字図書館も、そうした多くのボランティアに支えられて発展してきました。
 本間一夫少年の「希望」が建てた点字図書館は、盲人の読者にどれだけ喜ばれているかわかりません。その本間先生がまた、ボランティアの方々に感謝し続けておられます。その感謝の証は、先生がボランティアのお名前を一人残らず、はっきりと記憶していらっしゃることです。一つ一つひそかに光る愛の星のように。
 私事になりますが、筆者の夫は人生の途中で失明いたしました。失明の不運に加えて、経営していた会社を続けられるかどうかと悩んだとき、日本点字図書館に本間先生という方がおいでになると知って、夫婦でお訪ねしました。そして元気づけられ、再起することができました。
 点字図書館は本を貸すだけの場所でなく、愛の図書館だとしみじみ思いました。

池田澄子『愛の点字図書館長』から引用

これからの日本点字図書館

 その愛の点字図書館長が亡くなって12年が過ぎ去りました(※注 2015年現在)
 本間が望んだ盲人の読書は、自宅に座していても自由に本が読める図書館ということでしたが、その願いが、点字図書やCD図書の郵送貸し出しによって読めるだけでなく、インターネットからも読めるようになって実現しました。いつ、どこででもパソコンや再生端末機を使って点字や録音図書を楽しめる便利さを、1万3千人の読者が毎日実感しているところです。

 点字図書館が、こうした方向に動いたのは本間一夫の望みを叶えたものですが、さらなる進歩には多額の経費を要します。目下の悩みはそれであり、財政基盤の弱い点字図書館の泣き所です。
 日点はリーダー的存在であり、国費が付いていることもあって、「サピエ」という、全国の点字図書館やボランティア団体が製作する図書を提供する電子図書館のシステム管理を受託しています。しかし、自館の運営だけでも苦しいだけに、厳しいやりくりを余儀なくされています。

 そんな中で、今日においても、点字図書館を支える最大の力が人の善意であり、サービスの原点であることに変わりはありません。本間一夫によって教えられた崇高な理念の本質が、「人は国を守る城や、その城を守る石垣のようなもので、国の基である」ことを意味する「人は石垣人は城」という武田信玄の名言にあります。
 この言葉が長く生き続けているからこそ、点字図書館の発展も続くのでしょう。


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