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まい すとーりー(7)日本点字図書館創設者 没後20年

霊友会法友文庫点字図書館 館長  岩上義則
(『法友文庫だより』2023年夏号から)

 日本点字図書館(以下日点)の創設者、本間一夫(ほんま かずお)先生は、本年8月1日をもって没後20 年になります。自分の父親の命日さえ忘れがちなのに先生の命日を忘れないのは、親以上の深い御恩に浴した感謝からでしょう。それもそのはず、私は昭和40 年1月1日に、日本の視覚障がい者福祉の拠点と言われる日点に入職し、以来46 年3カ月間もそこで働き、ほとんどの期間を先生の薫陶を受けて育った身なのですから。

「ぜひ日点で働きたい」との意思を伝えたのは前年の5月半ばだったと思いますが、そのときの先生の返事は「僕は今、そんなことを考えてる余裕は無いんだ。7月にニューヨークで開かれる世界盲人福祉会議への出席の準備で、1分・1秒が惜しいほど忙しいんだ。話があるなら帰ってからにしてくれ」というそっけないものでした。

 ところが、これはその後に聞いた話ですが、1分1秒が惜しいと言ったその人が、何と、私のことをしっかりと心にとめていてくださって、金沢に住む点訳の草分け的な旭新一(あさひ しんいち)さんに、私の個人情報の収集を依頼していたというのです。
 旭さんと私は面識はありませんが、旭さんは、石川県立盲学校の教師、田辺建男(たなべ たつお)さんとは親友関係だったそうで、田辺さんは、私が高3のときの副担任でもあったので、個人情報を存分に仕入れて先生に伝えていたというのでした。


本間先生とのお別れ

 先生が亡くなった平成15年8月1日、私は危篤状態になったのを気遣いながらも、厚労省で重要な会議が予定されていたため、それに出席しないわけにはいきませんでした。このときほど後ろ髪を引かれる切なさを経験したことはありません。
 そして、午後の会議が始まって間もない1時30分頃、不安が的中して、先生の逝去の報が入ったのでした。誰とどんなルートで帰館したかは覚えていませんが、1分でも早く先生の手を握りたくて気が急いたものでした。
 先生の手は生前と変わらず大きくてふくよかで、いつもの穏やかさが、消えつつある手のぬくもりに残っている感じでした。
「先生お疲れさまでした」と小さく語りかけるほかに言葉は浮かびませんでした。

 葬儀は新宿区大久保の柏木教会で、ご家族、日点の職員や関係者、先生の身近な知人・友人が集まって、比較的小規模な形で行われました。しかし、先生を敬愛する人々は全国津々浦々に何千人もいるのですから、告別の儀式がそれで済まされるわけもなく、あらためて日点が主催するお別れ会を9月9日に、霞が関の全社協灘尾ホールで営みました。千人をはるかに超える参列者が集う中、式典は粛々と進行しました。
 お別れの言葉は、当時の立場上、私が述べることになりましたが、この歴史的な弔辞の重責と大任に万感胸に迫るものがありました。


愛の点字図書館長

 日点は、太平洋戦争が始まる前年の昭和15年11月10日に、豊島区雑司ヶ谷の借屋で、点字図書700 冊をもって開館したのはあまりにも有名です。時局の厳しさは日本国民共通の試練でしたが、視覚障がい者の読書を守るために、2度も点字図書と共に疎開したという尊い試練に耐えた例は、先生を除いては全く無かったに違いありません。このような熱血の先生だからこそ、日本の国土と国民の精神が荒れ果てた時でも尊敬され、点訳奉仕運動が
根付き、経済的支援の輪が広がって、今日の日点の基盤ができあがっていったのでしょう。

 読者もまた、そんな先生を心から敬愛しました。これを代表するような思いをつづっているのが、名古屋ライトハウスの元会長だった岩山光男(いわやま みつお)さんです。
 岩山さんは「B29 が襲来する恐怖といらだちの中でも、日点の本を読むことで精神的飢餓から抜け出すことができ、心と魂を育てられました。また、1冊の本との出合いで人間を見る目が変わり、人生観も変えられました」と言って、元ハンセン病患者明石海人(あかし かいじん)の歌集『白描』を取り上げました。私はこの話を弔辞の骨子として先生の業績と人となりを述べました。

 ここで、本間館長を「愛の点字図書館長」と評した池田澄子(いけだ すみこ)さん、日点を「人生を照らす灯台」と言わしめたエム ナマエさんのお2
人を紹介します。
 池田さんは、ご自身の著書『愛の点字図書館長』の中で本間一夫へのあこがれと感謝を捧げています。

「私事になりますが、筆者の夫は人生の途中で失明いたしました。失明の不安に加えて、経営していた会社を続けられるかどうかと悩んだとき、日本点字図書館に本間先生という方がおいでになると知って、夫婦でお訪ねしました。そして元気づけられ、再起することができました。点字図書館は本を貸すだけの場所でなく、愛の図書館だとしみじみ思いました。本間先生こそ、日本の盲人の歩みを何10 歩も大きく進めた人、優しい巨人と言えましょう。
この図書館を作り、50 年間も館長を続け、今なお盲人のことばかり心配してくださっている本間一夫先生に、私は感謝とあこがれを捧げてやみません」

 次は、エム ナマエさんです。日点ロビーの中心にある大きな柱に、全盲のイラストレーター・エム ナマエさんが描いた立派な絵が飾られました。
 女の子と動物と花をモチーフにした絵ですが、エムさんが7カ月をかけて制作してくださった力作です。これをご覧になった多くのみなさまからは、「作品に深みがあって、心が癒される本当にいい絵ですね」といううれしい感想を聞かせていただいています。

 この絵は、私が2011年3月をもって日点を退職するにあたり「何か記念の品を残したい」という希望を日点が受け入れてくれたことで実現したものです。46 年もの長期間お世話になり、生きがいと働きがいをもって過ごせた日点は単なる職場ではなく心のふるさとです。この絵を描いてくださったエムさんは「日点は人生を照らす灯台のような存在だ」と言っています。

 若い頃に画家を志したエムさんは失明の悲運に挫折しかけたのですが、日点を知り、本間一夫先生と出会ったことで「希望が湧き夢をあきらめない人生を歩むことができた」と言うのです。
 この話は私にとっても感動的でしたし、それが記念品の決め手になりました。「退職記念」ということに少しおこがましさを感じますが、日点においでくださる方々の心に、エムさんの夢とぬくもりが伝われば、それに勝る喜びはありません。


「本間記念室」を開設

 先生が亡くなった翌年の平成16年に、日点の別館3階に本間一夫の遺徳を偲ぶ「本間記念室」を作りました。記念室の位置づけとしては(1)創設者としての本間の理念を知る場所とすること、(2)視覚障がい者への情報提供の歴史を検証する場所とすることを基本としました。
 創設当時に使われた書架や、先生が執務した机や椅子を中心にした記念の品で形を整えました。展示ケースの上には、正面を向いた満面の笑みを浮かべた先生の写真があり、その横には次のような座右の銘が掲げられています。

   一人の悩みを癒し得なば 一人の憂いを去り得なば
   疲れし鳥の一羽をば 助けてその巣に返し得ば
   我が生活は無駄ならず
                  エミリー・ディキンソン


 先生は、この詩を私に何度聴かせてくださったことでしょう。先生を思い出す度にこれを口ずさんでいますが、この時が最高の充実感に浸れる時なのです。あらためて先生に感謝を捧げてご冥福をお祈りいたします。





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