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まい すとーりー(14)我が故郷 昔と今③

霊友会法友文庫点字図書館 館長  岩上義則
『法友文庫だより』2018年冬号より

※トップ写真はイメージです。本文とは関係ありません。



 誰でも、故郷をしのぶとき思い浮かべる名歌や名作の1つや2つあるのではなかろうか。こう切り出すと読者は、「ウサギ追いしかの山」の、あの歌のことを話す気なのかなと想像するかも知れないが、そうではない。鴨長明の随筆『方丈記(ほうじょうき)』を思い出すのである。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし…」。

 この世にあるものは全てうつろう。『方丈記』は、そう言って無常感を掻き立てる。この無常感は、我が故郷の変貌を見るにつけても、本当にそうだなと深く共感するものである。

故郷のうつろい

 私が石川県から上京したのが1962年(昭和37年)だから、その当時から55年の月日が流れただけで、村の世代交代が進んで、そこに住む人の相当数が馴染みのない人に入れ替わった。また、家も滅び去るもの、建て替えられるものあり、小川は暗渠に閉じこめられ、山は荒れ果てて、悲しいばかりの変わり様を見せている。まさしく「世の中にある人とすみかとまたかくのごとし」なのである。

 あの頃、遊びや語らいを通して一緒に育った少年たちは、今いずこ。
 集団就職で都会へ出て、そこで所帯を持った者、進学した地域の学校を卒業し、そこに職を得て家庭を持った者などいろんなケースがあるだろうが、いずれにせよ故郷で身を立てる人は少数派であり、郷里を去った者たちの噂さえほとんど聞こえてこない。

 村に残るのは多くがその家の長男であるが、私と同世代もしくはそれより上の世代のかなりの人が天国に召されてしまって、その人たちの孫の代が今日の村社会を担っている。私は年に1、2度百歳を超えた老母を訪ねるけれど、村人に声をかけられることは稀になってしまった。

 

 話は変わって、私は、帰郷する際、大概祖父母・父・兄の墓参りをするが、その後に必ず立ち寄る水源がある。
 昨年5月の帰郷の際もそこへ寄った。この水源は出雲の外れ近くにあって、水の味が良く、水量も豊富な秘境の名水である。そこが、昭和40年代の初め頃、近隣の集落に上水道を引く話が持ち上がったとき、有力な候補地に上がった。出雲では名誉なこととして大いに盛り上がったが、残念ながら選ばれるには至らなかった。

 けれども、とても目に付く道端の泉でもあり、評判を聞きつけた他地域の人々までが、ここかしこから名水を求めて集まって来るようになった。
 私が立ち寄った日も大勢が、持ち帰り用のポリタンクやペットボトルに水を汲み入れたり、喉を潤していた。私も久しぶりに一杓味わったが、懐かしさも手伝って、昔ながらの美味に大いに満足したものである。
 その一方で、周辺にあった民家は消えてしまい、強い風が吹く度にザワザワと枝葉を鳴らしていたカヤの大木も枯れてしまったとかで、すっかり景色を変えた話には寂しさを禁じ得なかった。

※写真はイメージです


共生社会の原点と厚い人情

 ところで、私の頭には村民の優しさや思いやりが鮮明に蘇ってくる。その中で印象深い二つの話を書いてみたい。

 軽い知的障がいのある30代の女性がいた。その女性の周りには、いつも数人の子どもが居る。年齢は2、3歳が中心。キャーキャー騒ぎながら道を駆けていく。居場所は道路だったり宮の境内だったり洞窟の中だったりとさまざまだが、背中には0歳児をおぶい、もう1人をだっこして、さらに手引きして歩いていたりする。
 子どもたちは別々の家から預かった幼児である。農家は多忙で、子育てに手が回りかねるため、そのような家庭の子守がこの女性の仕事になっていた。

 当時、我が集落には保育所や幼稚園などはない。村は農家が多く、農繁期は猫の手も借りたい忙しさなので、下校後の子どもは、たいてい妹や弟の子守をしなければならないが、弟妹を預けるお兄ちゃんやお姉ちゃんがいない家庭では他人に頼らねばならない。
 そこで一番頼られるのがこの知的障がいの女性だったのである。
 面倒見の良さと子どもに対する優しさが抜群の信頼を得ていたのである。

「知的障がいなので少しコミュニケーションに不都合がある」「へんなものを食べさせた」というような話が無くはなかったが、結局健常の子守より人気が高かったのは、そうした小事を解決して余りある安心を与えたからに違いない。
 知的障がいの女性にとって子守は労働であり、収入源であるから、言わば相互扶助の形を成していたことになる。私には、このあり方は単に便利主義・ご都合主義には見えなかった。小さな集落の温かい人間関係の上に築かれたコミュニティーのモデル、共生社会の原点の姿に写った。

  もう一つの例を示したい。
 出雲の集落に盗癖のあるおばさんが住んでいた。畑の野菜や玄関先に置かれた物品が、そのおばさんによって持ち去られるのは日常茶飯事。ついには、神社の賽銭にまで手を出す始末。何人もの目撃証言あり、現行犯として村民の追及も受けるのだが、「知らぬ・存ぜぬ」で押し通す図太さである。普通の社会なら、ここまで盗みが明白なら警察沙汰になっても不思議ではない。現に「警察へ行ってもらおう」「連れて行こう」といきまく者もいた。

 しかし、そのやり方は結論としては多数に受け入れられず、おばさんは生涯村の中で住み続けることができた。村人は、事あるごとにおばさんの悪口を言ったが、そうした中でも「物を管理する側にも問題があるよねえ」、「ちゃんとした賽銭箱も作らないで、どうのこうの言うのもねえ」などと、おばさんの盗みを擁護するかのような声さえ聞かれたことに、この集落のとてつもない人の良さと厚い人情を感じたものである。

  こうした厚い人情は、金沢の盲学校の寄宿舎にいる私にも注がれた。
 前回このコーナーで「なぜ自分から盲学校行きなど志願したのか」と悔やむ気持ちを吐露したが、村民の多くが私を気にかけてくれていた事実が誠意に表れていた。

 金沢には、大和紡績(だいわぼうせき)という北陸一大きな紡績工場があって、他県からも大勢の若い女性が就職していた。
 出雲からも常時4、5人が女工として働いていた。私のホームシックは村中に知られていたらしく、女工たちが里帰りする度に里のみやげを届けてくれた。たいていは、かきもちや干しいもなど、素朴で日もちのいいおやつだったが、空腹を満たしてくれてありがたかった。

 また、秋の取り入れの時期には加賀平野に大勢の稲刈り部隊が出稼ぎに繰り出すが、出雲からも出かける人がいた。
 何と、その人たちが、稲刈りの戻りに、疲労を押して、わざわざ盲学校へ慰問に来てくれたのであった。秋が深まって、高い空にモズの声が鋭く響き渡る頃になっても、私はまだ寂しさを抱えていた。
 出稼ぎのおばさんにさえ「ぼくも家へ連れて帰ってよ」と言って涙ぐむので、本当に困り果てたと長く言われたものである。

 

永遠の住処を故郷に。それが私の願い

 さて、冒頭に書いたように、故郷の人と住処が変わり、自然の風景も様変わりした。でも、私には故郷は「遠きにありて思うもの」ではなく、そこはいつも居たい場所なのである。
 確かに知人が激減し、兄妹もいなくなった。母親は健在とは言え、我が子を認知できないほどになって施設暮らし。何を取っても寂しさ・切なさでいっぱいだが、望郷の念にいささかの変化もない。
 自分を育ててくれたのは家族や親戚・友人には違いないが、それ以上に風土そのものが自分を引きつけて離さない。
「香り高い草木や土の優しさ」
「雷雲や豪雪を連れてやって来る厳しい寒風」
 そうしたものに自分ははぐくまれたのだ。だから、自分をはぐくんだ風土がある限り、そこに先祖代々の魂が住み続ける限り、故郷は恋しい場所なのである。
 そうなると、私自身も、いずれ故郷の土に戻りたくなるのも当然の理ではないか。故郷に永遠の住処が約束されれば、これに勝る喜びはない。この思いを兄嫁に伝えた。

「姉さん、実家が持っている草藪の隅でいいから、私の墓を作らせてもらえないでしょうか」

 自分の頭には具体的に思う場所があった。そこには、かつて実際に岩上家の墓所があり、今茫々たる茂みと荒れ地となり、大物の大蛇が住み着いているとさえ言われるジャングル並みの傾斜地である。
 遠慮しいしい願い出たのだが、兄嫁は「そんな遠慮せんと、夫や先祖の墓のそばに建てまっし」と、能登の方言で快く承諾してくれたのである。願ってもない提示に心から感謝した。

 そこは、前号で書いた浄厳寺に近い場所で、岩上家が有する杉林の一部を切り開いて整地した墓所で、周りを囲むのは低い里山。春から初夏の時分には、その里山に藤や山ユリが咲き匂い、賑やかに野鳥たちがさえずる。それが私にはうれしい。
 野鳥好きの私にとってよりうれしいのは、そこにヤマガラが多く生息していることである。この鳥は、日本各地の山林に住み、昆虫などを食している。神社などで御神籤(おみくじ)を引く鳥としても知られるが、最大の魅力はきれいなさえずりである。「ピーツツ・ピーツツ」と哀調を帯びたさえずりは、下手な口真似やききなしで説明できるものではない。毎夏この声で癒されるなら遺族や知人の墓参・供養も無用なほどである。

 墓を作ると友人・知人に言うと、「場所だけ確保しておけばいいじゃないか、作るのは死んでからにしたらどうか」「墓を作ると、作った本人が早く死ぬという話だよ」などの消極的な意見がでた。だが、迷いはほんの一瞬で、すぐに思い直して石材店を探すやら、どんな石を使ってどのくらいの規模にするかなど、マイホームを建てるような弾む気持ちで準備を進めた。

 完成したのは2016年(平成28年)5月20日。自分の誕生日に合わせて計画したものだ。墓石は、茨城県産「真壁青小目石」。176×80×110cm。5月は父と兄の祥月命日の月でもあり、それも考慮した決断になった。


村民との絆が強かったからこそ

 大都会には故郷を感じないと言う人が少なくない。たぶん、圧倒的な地方出身者で占められているからだろう。その一方で、毎年盆と正月になると帰省ラッシュがニュースになるところをみれば、人はどこで暮らしていようとも、やはり親兄弟がいて、懐かしい思い出が詰まった郷里に心を寄せるのであろう。
 私の場合、出雲でまるまる暮らした年月は8年しか無いし、土日ごとに帰郷できる状況にもなかった。夏休みも合宿で過ごすなどして、短期間のこともあり、なぜこんなにも思いが濃厚なのだろうかと考えることがある。

 その結論は、これまで一貫して書いてきたように、家族・親戚・友人を含めて、村民との絆が特別に強かったからにほかならない。
 村人の「よっちゃん、よっちゃん」の連呼は、それだけで心を和ませ温めてくれるのに十分である。
 このようなことは稀な例なのか、盲学校で聞く盲児の話には悲し過ぎるものがいくつもあった。「通りで石をぶつけられた」「側溝へ突き落とされた」「親からさえ疎まれ、送迎もしてもらえなかった」など、障がい者の悲哀を幾つ聞かされたことか。
 そうかと思えば、浜に捨てられていた盲児が魚屋のおかみさんに拾われ、我が子に勝る愛情で育てられた美談もあった。その子が村でいじめられたときも、おかみさんは毅然として立ち向かっていたという。人の心はさまざまだが、集落ぐるみで成長を見守られた私は何と果報ものだったことか。

 
 3回に渡って「我が故郷の昔と今」を連載させていただいたが、つたない文章を最後までお読みくださったみなさまに心からの感謝を申し上げたい。

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