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口下手な爺ちゃんが原爆について語った話

8/6は原爆の日でした。自分自身が忘れないために、
子供の頃爺ちゃんが話してくれた思い出をnoteに書き留めておきます。


当時現場でできた唯一のこと

うちの爺ちゃんは広島で原爆投下直後から被爆地の救援作業にあたり、数えきれないほどの多くの死に触れてきたそうです。

来る日も来る日も屍の山を積み上げては燃やし、
積み上げては燃やし。

救援といえば聞こえはいいですが、実際この時の広島で、それ以外にできることはありませんでした。

数百、数千の遺体を毎日スコップで掘り出してはトラックに載せて運びます。

度を越して悲惨すぎる光景に感覚は麻痺し、いつしか毎日運ぶ人の身体を「物」としか認識できなくなっていました。


若いお母さんと娘さん

ある日いつものように遺体の山に火を付けようとすると一人の若い女性が

「この山の中に娘がいるはずだからどうか最後に一目見せて欲しい」

爺ちゃんに懇願してきたそうです。

爺ちゃんはすでに正常な人間の思考ができなくなっていましたから

「奥さん、ここはしばらく放置しておきますから、ご自分で探してください」

としか彼女に言うことが出来ませんでした。

やがて終戦後故郷に帰ってしばらくしてからようやく、

「どうしてあの時、一緒になって探してあげられなかったのだろう」

と思うようになり、晩年もずっと後悔していました。


口下手な爺ちゃんが唯一話した戦争のこと

爺ちゃんは口下手で自分のことを話すのが苦手です。
家族でさえ、原爆の話をあまり聞いたことがありません。

でも僕は子供の頃、爺ちゃんがぼそぼそとした口調で語ってくれたこの話がいつまでも印象に残っています。

終戦から10年経たずして現地にいった部隊の戦友は原爆症で次々に亡くなっていきました。ただ1人、爺ちゃんが85年の天寿を全うできたのは、その時の後悔を背負っていく意味があったんだと思います。

2011年、3月11日の早朝、爺ちゃんはこたつで眠るようにして逝きました。震災をその目でみる直前に。

戦争については(核については)あまりにも多くの情報があり、考え方があり

どれが正しいものかは僕にはわかりませんし語るつもりもありません。

ただ、爺ちゃんの体験だけは、あの戦争について考える

確かな足がかりとして、僕の中に残していきたいです。

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