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オランダ海上帝国

小さな帝国から生まれた、株式会社という大発明

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光と影の明暗を明確にする画法で知られる、17世紀オランダの画家『レンブラント

まさにオランダの黄金時代の始まりの時に生まれ、好景気の中で自らの絵を売ってお金を稼いだ彼は、オランダの没落とともに不況と美術市場の落ち込み、自らの浪費やこだわり、不運などに見舞われ、借金を重ねて晩年は貧困に喘いだ。 不景気とともに債権者の態度が硬化し、全財産を代物弁済することで破産を逃れている。

まさに光と影、国の浮き沈みとともに生きた芸術家の彼は、後世でも高い評価を受けている。

では、そんな画家レンブラントを生み出した17世紀のオランダはどんな状況だったのだろう。

繁栄と衰退の17世紀、オランダが世界中を支配した、「オランダ海上帝国」の時代について見ていこう。

正式名称は、ネーデルラント連邦共和国

1600年頃、現在のオランダやベルギーにあたるネーデルラントという地域のうち、北部の7州がまとまって独立を果たしたことにより、成立した国だ。

現在でも英語での呼び名はThe Netherlandsである。オランダという呼称は、その7州の中で最も影響力と経済力のあったホラント州から来ている。

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それまでのネーデルラントは、スペインの統治下にあった。

ネーデルラント17州の経済的自由は、スペイン時代に次々と奪われていった。

毛織物産業が盛んで、商業で栄えていたネーデルラントにとって、こうした締め付けは問題だった。

更に大きな軋轢を生んだのが、宗教問題だった。

スペインはキリスト教の国家だったが、宗派はカトリックだった。ネーデルラントに伝わっていたのはプロテスタントだった。

スペイン国王がカール5世からフェリペ2世に代わると、更に増税などの締め付けが強くなり、スペインの中央集権制も強化された。ネーデルラントではキリスト教カルヴァン派が拡大しており、それもスペインとの対立を深めた。

1568年、オラニエ公ウィレムの反乱が起きた。ネーデルラント南部10州はカトリックの影響が大きく、スペインに残ったが、北部は1600年頃から事実上の独立となったわけだ。

しかし正式に終戦となったわけではなく、両国はしばらくの間ズルズルと引きずったままの状態となる。

時は大航海時代、スペインとポルトガルの植民地競争に食いこんだのが、この出来たばかりのオランダだった。

小国ながら商業で豊かになっていたこの国は、小国がゆえに外へ出る力を鍛えていた。

しかし1580年にポルトガルとスペインが合併すると、オランダがアジアとの香辛料貿易をするのはほぼ不可能になってしまう。

東南アジアの大半の都市はポルトガルが抑えていたからだ。

オランダも1595年からジャワ島の諸都市への遠征を始め、香辛料貿易の拠点を確保した。しかし複数の企業がこぞって購入したせいで価格が上がり、オランダ本国での価格は下がった。

つまり、市場間の価格差を埋めるアービトラージ(裁定取引)が起こり、利ざやが減ってしまったのである。

それを防ぐためにどうしたか。オランダ本国で企業をとりまとめ、1602年、オランダ東インド会社が発足したのだ。

オランダ東インド会社


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これは世界初の株式会社と言われている。

つまりオランダが発明した株式会社というシステムは、国境を超え、時代を超え、今も尚使われ続けている。それだけ優秀な仕組みということだ。

ご存知の通り、株式会社は株を持っている人が割合に応じて所有者となる。何を所有するかというと、売上から全ての経費と税金を引いた最終利益であり、それを会社に入れたままにするなり配当するなりする。資産から負債を引いた純資産も株主のものだ。会社を持つということは、今の純資産+将来的に何年にも渡って得られるであろう最終利益を受け取る権利であると考えられる。(これは考え方の1つに過ぎない)

株主は、会社の舵取りをしてくれる人々を雇う。これが役員だ。そして会社の方向性を決定するのに、割合に応じて議決権を持つ。創業者の経営者が大株主の場合も多い。株主は、会社が経営に失敗したら出資した額を失うリスクを負う代わりに、高いリターンを求める。上場して株価の値上がりであったり、配当という形で。

株主の拠出した資本は、債権者の方に優先的に割り当てられるが、仮に会社が倒産しても株主は出資額以上の損失は負わない。(有限責任) 株主はそういう経営者を選んだということを結果責任として損失を被る。

実はそれまでの会社形態では、株主も無限責任を負っていたのだ。オランダ東インド会社はそこの部分で革新的だった。イタリアなどで広まっていた合名会社のシステムも、無限責任だ。

大規模に資金を集めて大きな事業をする場合、株式会社という仕組みがいかに優秀かは、現在の経済を見ても分かるだろう。

そして、この株式を取引するための証券取引所も、最初は青空のもとで少人数の男たちが集まってバラバラやり始め、やがて色々な会社の株や債券、オプションなどが扱われるようになり、大盛況となった。

かの有名なチューリップバブルも、市場の整備と投資という行為の浸透、オランダの好景気、人々の可処分所得の増加など、さまざまな要因が重なり、この時代に起こった。

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これが原型となって、現在のユーロネクスト・アムステルダム証券取引所が出来上がったのだ。

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1619年、ジャワ島のジャカルタにあたる場所に、バタヴィアを建設。オランダ東インド会社の拠点とした。

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ちなみに、イギリス東インド会社の東インドはインドのこと。オランダ東インド会社の東インドはインドネシアのことだ。

そして1623年、オランダ東インド会社がイギリス商館を襲撃、駐在員20人を殺害するというアンボイナ事件が起こる。イギリス商館がオランダ商館を襲撃するという情報を受けて先手を打ったと言われている。これにより、イギリスをインドネシアから撤退させることに成功。オランダはここから長きに渡りインドネシアでの支配権を確立する。

またこの時オランダは中国との交易も始めており、中国本土は無理だったが、1924年台湾南部を占領することに成功した。

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そして1658年、それまでポルトガルが支配していたセイロン島(スリランカ)も占領に成功。

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一方、南アフリカでもオランダが1652年にケープタウンにケープ植民市を建設。アジアへ向かうルートの大事な拠点だったため、ここもオランダ東インド会社が抑えていた。

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これらのアジアでの利権や開発を一手に引き受けていたのがオランダ東インド会社だったのだ。

そしてオランダは、アメリカ大陸という「新世界」でも、勢力を拡大していくことになる。

オランダ西インド会社

一方、オランダ東インド会社の独占をよく思わなかった人達がいる。

その人たちは、アジアへアメリカ大陸を迂回して大回りしてアジアへ向かうルート(北西ルート)や

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ユーラシア大陸の北で迂回してアジアへ向かうルート(北東ルート)の開拓を試みた。

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1609年、ヘンリー・ハドソンが北西ルートの開拓を試みてニューイングランドの海岸に上陸した。

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一行はハドソン川を遡上したが、北西ルートの開拓は出来なかった。

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そのため、群島の間を通りアメリカ大陸を南に迂回してアジアれ向かうルートの開拓を目指した。

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また、オランダ商人の中にもアフリカとの貿易に注目する者も現れる。1612年、アフリカのギニア地域、モリーという場所に初の拠点が作られる。

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1628年、セネガルのダカール沖に浮かぶ、奴隷貿易の拠点となっていた島、ゴレ島をオランダが占領した。

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休戦を挟んではいるものの、この時のオランダはまだスペインと戦争状態にあった。

この時代のスペインはカリブ海と中南米を完璧に抑えていた。そのため、カリブ海とのタバコや砂糖の貿易は妨げられていた。

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本格的にアメリカへ進出を果たすため、1621年オランダ西インド会社が設立される。

ちなみにこの西インドはカリブ海の島々のことだ。

西インド会社は砂糖生産と奴隷貿易を支配しようと、ポルトガル領の中南米に侵攻しようとする。

その一環として、1624年に砂糖生産の拠点の港町、サルヴァドールを攻略。

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翌年奪還されるが、1630年にレシフェを攻略した。

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また、カラフルな街並みで知られる現オランダ領アンティルも西インド会社によって占有された。

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また南米のギアナ地方もオランダが占領し、黒人奴隷を使ってタバコのプランテーション経営を行った。

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北米においても、オランダは植民地を建設し始めていた。

前述したハドソンの探検ののち、オランダ領ニューネーデルラントが建設された。

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首都はニューアムステルダム。勘のいい人は気付くかもしれないが、ここが現在のニューヨークにあたる。

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マンハッタン島はもともと自然に溢れた未開の地だったが、1625年頃から植民地の建設がスタートしたのだ。

そして、この頃、インディアンやイギリス人の侵入を防ぐため、壁が建設された。

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今この壁は現存しない。その上にウォール街が立ち並んでいるからだ。

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ウォール街の語源が何なのかは言うまでもない。

海上帝国の形成

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さてここまで、17世紀にアジア、アフリカ、アメリカ大陸でオランダがどれだけ影響力を持っていたのかお伝えしてきた。

オランダの国土自体は小さく、各地の沿岸や島国を支配していたことから、オランダ海上帝国と呼ばれるようになる。

しかし更に驚くべきは、オランダはこれだけいい場所にたくさん植民地を持っていながら、ほとんど利益が出ていなかったのだ。

そして、オランダはイギリスとの戦争に敗れ、ほとんどを手放すことになる。

結論

1つの事業に成功して、多角化することは良くあることだろう。それは良いが、その事業1つ1つはそれほど儲かってないということがあるかもしれない。その時はオランダ海上帝国を思い出して欲しい。本国は豊かだからあまり気づかないかもしれないけれど。

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