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狂騒の20年代

高層ビルも含め、ほぼ現代の暮らし

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1919年、アメリカ・ニューヨーク州・マンハッタン。第一次世界大戦から復員してきた兵による戦勝パレードは、重苦しい過去を跳ね除け、明るい未来の始まりの象徴となった。

アメリカはイギリスから独立して以来、さまざまな戦争を行ってきた。イギリスとの独立戦争を始めとして、史上最大の死者を出した内戦の南北戦争などだ。度重なる戦争の資金は、「世界の銀行」となっていたイギリスの金融システムを通じて、外国から公債の発行によって調達した。そういう経緯から、アメリカは債務国であった。

状況が大きく変わったのは、1914年に起こった第1次世界大戦からだ。アメリカは1917年までは参戦せずに中立を決め込みつつ、イギリスやフランス等の連合国の戦争債権を引き受けた。国内は戦場にならず、また1880年に工業生産でイギリスを抜いて世界一の工業国となっていたことを活かし、連合国側に軍事物資や生活物資を大量に輸出した。

その結果、1918年に第一次世界大戦が終結した頃から、アメリカは債権国へと変わり、荒廃したヨーロッパに変わって覇権国家としての地位を確立した

大戦後、アメリカは軍需物資の生産低下によって一時的に不況に陥った

株価も、終戦=特需の終了ということでしばらくの間は下落したが、その落ち込みはすぐ終わることになる。

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1921年、共和党のウォレン・ハーディングが大統領に就任する。

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ハーディングが掲げた政策が、

「Return to Normalcy」 

暮らしを普通に戻そうというものだ。

戦争一色だった社会も正常に戻り、工業生産力は生活物資を豊かにするために使われることになる。

基本的に国が規制によって介入せず、大戦時に引き上げられた税率も元に戻された。戦債は好景気による税収で返済され圧縮された。

そんな中、アメリカに戻ってきた人達がたくさんいた。第一次世界大戦に従軍していた復員兵である。彼らは、給料としてまとまったお金を手にした状態で国に帰ってきた。それだけたくさんの人が買いたいと思ったものを作れるだけの供給力がアメリカにはあった。そして復員兵もまた、働き口を求めていた。

供給力と需要と、双方が増大した。これすなわち、アメリカの経済がどんどん成長していったことを意味する。

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一方ヨーロッパでは、莫大な賠償金を課せられたドイツと、戦勝国ではあっても荒廃したイギリスやフランスなど、大混乱であった。

アメリカはドイツの賠償金を削減したり、ドイツに経済支援を行い、イギリスやフランスへの支払いが出来るようにし、ヨーロッパ経済回復の立役者ともなった。

さて、ここまでマガジンをお読みの方はお気付きだろうが、この時代にもさまざまな企業が急速に成長を遂げ、新たな富豪がドンドン生まれた。その中には金ぴか時代からアメリカ経済社会の立役者となっていた人もいれば、新しい顔もいた。その面々をご紹介していこうと思う。

この時代は、ほとんど現代と変わらない暮らしぶりが、都市部の住人を中心に浸透していくことになる。

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伏線としての第二次産業革命


石炭・蒸気機関・軽工業中心の産業革命から数十年後、1860年代から、化学・電力・石油・鉄鋼・重化学工業中心の第二次産業革命に世界中が移行した。

その流れを受け継ぎ、第一次世界大戦後の経済発展とともに、新しい産業がどんどん形成されていった。

<石油産業>


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1870年ジョン・ロックフェラーが創業したスタンダード・オイル・オブ・オハイオを中心とする企業グループは、アメリカの石油精製シェアの90%を占めるまでに成長した。 

しかし、独占に対する政治的な圧力は流石のロックフェラーも跳ね除けられず、反トラスト法(独占禁止法)により訴追され、1911年に連邦最高裁で解体命令が出され、34もの新会社に分割させられることになる。

この分割新会社の後継会社が、現在でもアメリカの石油産業で重要な役割を果たしている。

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また、分割されたとはいえ、ロックフェラーが同じ割合だけ分割新会社の株を持つことは変わらないわけなので、1937年に亡くなるまで大富豪として君臨し続けることになる。

現代に生きる我々でも、未だに石油は必要不可欠な存在であり続けている。それは単に暖を取るための燃料になるだけではない。さまざまなものを動かす動力や、石油から派生したさまざまな製品の原料にもなっているからだ。

人類が石油を使うようになってから、裾野はどんどん広がっていった。

<化学>

それは、石油から生み出された化学製品にも及んだ。

石油由来の素材が日用品に使われ始めたのもこの頃なのだ。

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この分野で重要なプレーヤーとなったのが、火薬の開発と製造で南北戦争や第一次世界大戦で巨利を得たデュポン社だった。

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戦争が終わるや否や、化学分野での能力を応用して次々と日用品を生み出していった。

それは、合成ゴムやナイロン、テフロン、合成樹脂や農薬、塗料にまで及んだ。

この時代の人々の近代的な暮らしを支えたのは、こうした痒いところに手が届く発明であることは言うまでもない。

<鉄鋼産業>

金ぴか時代に活躍した鉄鋼王カーネギーだが、その所有するカーネギー鉄鋼所や、その他大手が合併して1901年にUSスチールという会社が誕生する。

USスチールの本社があったペンシルベニア州ピッツバーグは鉄鋼業で栄え、現在でもSteel Cityという愛称が残っている。

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USスチールの誕生当時は全米の鉄鋼生産の3分の2を支配している状態だったので、1911年に反トラスト法で解体が試みられることになる。しかし結果的にそれは失敗に終わった。

ただ、全米2位のシェアを誇ったベスレヘム・スチール社に技術開発競争で敗れ、少しずつシェアを落としていくことになる。

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鉄鋼は、ある意味全てのもとになる産業だ。特にこの時代からは、需要が飛躍的に増大した。近代的な暮らしをするため、ありとあらゆるものに、石油と鉄鋼は利用されていった。

<自動車産業>

自動車はまさにその好例だ。個人が自由に素早く移動するのに、これ以上便利なものはない。自動車はこの時代に富裕層から一般大衆に至るまで広く浸透し、アメリカの交通の大部分を支えるものとなった。

自動車は、石油製品のガソリンと、鉄鋼で出来た車体、ゴム製のタイヤなど、ありとあらゆる技術の結晶といえる。それゆえ、この時代に爆発的に普及することになったのだ。

自動車が普及するのに大きく貢献した起業家として、絶対に欠かせない存在がある。

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ヘンリー・フォード

自動車に詳しい人は聞きなれた名前だろう。フォード・モーター・カンパニーの創業者だ。

ヘンリーフォードは蒸気機関車の修理工をしていたが、エジソン証明会社に転職。そこで雲の上の存在だったトーマス・エジソンと出会う。自動車製造の夢を語ったフォードを、エジソンは激励したという。

1899年、初めての自動車会社であるデトロイト自動車を立ち上げる。しかし低品質高価格のものしか作ることができず、1901年に解散となる。

同年、設計士の力を借りて作ったモデルがコンテストで好成績を収めたのを期に、再び自動車会社を立ち上げることになる。1902年にはフォードはこの会社を離れる。ちなみにこの会社は後にキャデラックと名乗る。

同年、再び自動車事業に乗り出したフォードは、発注を行って販売まで作り上げるものの、予想より伸びず経営危機に陥ることに。そこで、取引先や出資者を説得し、1903年にフォード・モーター・カンパニーを再結成。ここから快進撃は始まることになる。既にフォードの年齢は40歳になっていた。

1908年に発表された、フォード・モデルT、いわゆるT型フォードは、ニッチで金持ちの道楽だった自動車業界そのものを変えてしまった。

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お値段なんと825ドル

造りをなるべく簡素にし、コストを徹底的に抑えた結果だった。

他メーカーの大衆車が1000ドル、富裕層向けは3000ドル以上という中で、破格だった。

しかもその後もどんどん価格は下がっていった。1916年には、最安モデルで360ドルという破格さだ。

この画期的な新製品を手にしたフォード社は、どんどん新聞広告を打って広めたほか、全国にフランチャイズ方式で販売ディーラーを置き、販売網を作り上げた。

そして、1914年には、販売台数が25万台を超えた。

それだけ圧倒的なコスト競争力があったのは、1913年に導入したライン生産方式の力も大きかった。

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ベルトコンベアの前にそれぞれの役回りの従業員が立ち、流れてきたものをひたすら組み立てる。これにより、個々の仕事は圧倒的に簡単になる。作業能率も飛躍的に向上するのだ。今でこそ当たり前だと思うかもしれないが。

また、フォード社はモデルチェンジ等をほぼせず、黒のT型フォード一本で勝負し、そうすることでコストをどんどん下げていく戦略を取った。

ただ、そんなフォードの立場を脅かす存在が現れる。

ゼネラル・モーターズ社、通称GMだ。

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1903年に創業したビュイックという自動車メーカーは、1904年にウィリアム・デュラントを招いて経営のトップに据えた。販売網の強化によってビュイックは急成長した。

1908年には、ゼネラル・モーターズを持ち株会社とした体系に移行する。しかし、買収を繰り返したことで資金がショートし、1910年にデュラントは支配権を失うことになる。

翌年、1911年にデュラントはシボレーを創業。1916年にはGMの株を買い戻して経営に返り咲く。

実はこの時の支援者となっていたのが、化学製品で一世を風靡したデュポン社の社長、ピエール・デュポンなのだ。

1920年、ピエール・デュポンは、デュラントを追い出し、アルフレッド・スローンを経営トップに据える。

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この時に大量生産に加え、色んなモデルを色んな価格で、という方針が定まりフォード社の一強を脅かすことになる

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ブランドの最上段には富裕層向けにキャデラックを置いた。すぐに高級車の代名詞として浸透した。

下段にはシボレーを置いた。

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富裕層から庶民まで幅広くさまざまなモデルを次々と打ち出していく戦略がハマり、ついにフォードを追い抜いてシェア1位となることに成功する。

<航空産業>

少しずつではあるが、この頃から航空機も進歩してきて、飛行機を交通手段とする産業も生まれることになる。

1903年、ライト兄弟が友人動力飛行を成功させる。

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そして1927年、チャールズ・リンドバーグがニューヨークからパリへ、単独、無着陸での大西洋横断飛行に成功した。彼はこれによって大スターとなった。

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そんなリンドバーグを顧問に迎えた航空会社がある。

アメリカとキューバの間の航空輸送を目的としてフロリダ州に設立され、後に華やかさの象徴となるパンナム航空である。

キューバ路線のみならず、アメリカ領プエルトリコ路線やパナマをはじめとするカリブ海周辺の路線、更に東海岸を中心とした国内線にも参入した。

カリブ海路線以外にも、アメリカが影響力を増していた中南米路線アルゼンチンやチリ、メキシコやブラジルなどの長距離国際線の路線権を獲得。キューバのクバーナ航空や、ブラジルのパンエアメキシコのメヒカーナ航空なども買収しその路線網を拡充していった。

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もっとも、航空輸送による交通網が世界中を巡るようになるのは、まだ後の話である。

<情報通信産業>

この時代、現代と変わらない暮らしの象徴として挙げられるのが、ラジオの登場である。

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1920年11月、ペンシルベニア州ピッツバーグで開局したラジオ局、KDKAは大統領選の開票速報を放送し、ハーディングの当選を伝えた。

1926年には、ラジオ放送局、NBCが設立される。この親会社となったのが、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ、通称RCAである。RCAはこの時代のラジオを代表する存在であった。

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RCAが設立されたのは、1919年

ゼネラル・エレクトリック社AT&T、ユナイテッド・フルーツ社などが出資者となって設立された、ラジオ機器の製造販売からレコード会社、放送局の経営まで一手に請け負う会社だ。

1923年までに、地下ケーブルによる通信で、大西洋で3割、太平洋で5割のシェアを誇っていた。

さて、ゼネラル・エレクトリックやAT&Tという社名、現在でも聞くことが多いだろう。つまり今の今まで生き残っているということだ。一体何をしていた会社なのだろうか。

ゼネラル・エレクトリック社は、かの有名なトーマス・エジソンが創業した会社だ。

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1868年、21歳の時、それまで電信係の仕事を辞めて放浪していたエジソンは、初めて特許を取得した。電気投票記録機だったが、肝心の議会では受け入れられず、まったく採用されなかった。それを受け、人が潜在的に欲しいと思っているものでないと発明にも意味がないと気づく。

1869年、22歳の時には、株式相場表示機(ティッカー)を発明。現在の価値で2億円もの価格で買い取ってもらい、本格的に発明家として歩むことになる。

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トーマスエジソンが偉大な人物として名前を残しているのは、さまざまな発明を自ら生み出しただけでなく、既にあるアイデアでもいかにして商用化するか、お金儲けをするかを考えて実現させたところが大きい。これはこの時の経験をもとにしているのだろう。

1877年、蓄音機の実用化に成功した。そしてニュージャージー州に研究室を設立。ここから、さまざまな発明を生み出して商業化させていくことになる。蓄音機のほかにも、電話機電気鉄道白熱電球発電機映画トースターなどだ。

白熱電球を実用化して販売する会社として1878年に設立されたのが、エジソン電気照明会社だ。

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そして1889年、エジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニーを設立した。

1892年にはゼネラル・エレクトリック社と改称。

1896年、ゼネラル・エレクトリック社(通称GE)がダウジョーンズ工業平均に組み入れられる。

1919年AT&T等と合弁でRCAを設立した。

さて、頻繁に名前が登場するAT&Tについても説明する。

正式名称は、アメリカン・テレフォン&テレグラフ・カンパニー

読んで字のごとく、電話通信事業を展開する会社である。

電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベルが1877年に設立したベル電話会社を前身とする、長距離電話の運営企業だ。 

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1892年には、ニューヨーク・シカゴ間を電話線が結んだ。

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電話は重要なインフラなので、独占は議論を呼んだものの、政府との折衝の上、黙認される形で独占が認められた。ただし、電信事業のウエスタンユニオン社を保有することは許されず、1913年に手放すこととなった。

<金融>

さて、ここまで1920年代の産業界を飾った華々しいプレーヤーたちを紹介してきた。実はここまでに出てきたほとんどの企業に、関わっていた1人の重要人物がいるのをご存じだろうか。

ジョン・ピアモント・モルガン、その人だ。

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カーネギーが所有していた製鉄所と連邦鉄鋼会社の合併、USスチールの誕生を主導したのもモルガンだし、エジソン・ゼネラル・エレクトリックがトムソン・ヒューストン・エレクトリックと合併し、GEが誕生するのを手助けしたのもモルガンだ。AT&Tが巨額の転換社債を発行した際に引き受けたのもモルガンだ。アメリカ中の鉄道網を手中に収めたのも、モルガンだ。モルガンは様々な企業に資金を供給することで産業界を支配していった。

1907年に金融危機が起こり、銀行が取り付け騒ぎ、株価が大暴落した時にも、銀行の頭取たちを集め、法で定められていた準備預金を取り崩して必要な額の貸付を行うよう呼びかけた。これによってアメリカの黎明期の金融システムそのものが壊れるのを防いだのである。

モルガンが初めてその権勢を見せ始めたのは南北戦争後の金ぴか時代のことだが、それからも1913年に亡くなるまでの間、アメリカ産業界に大きな影響を与え続けていた。彼が亡くなった時は、株式市場への影響を考えてしばらくの間、公にされなかったほどだ。

そしてモルガンのみならず、この時代の産業にとって、金融システムそのものが欠かせない存在となっていた。

クレジット(信用販売)が一般の市民にまで普及するようになったのだ。

特に大きかったのが、自動車ローンであった。

フォード社は、顧客に借金を背負わせて車を売るのに尻込みしていたが、ゼネラル・モーターズ社が子会社のローン会社を通じて顧客に自動車ローンを提供したことで、爆発的に普及することになる。

「BUY NOW PAY LATER」

今買って後で払う、が普及したことで、今すぐは手が届かないような高額なモノもバンバン売れることになる。

こうした社会の変化が、大量生産・大量消費を1920年代のアメリカで実現したのだ。

そしてこの頃には、送金ビジネスも発展していた。

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現在でも国際送金ビジネスで大きなシェアを誇っている、ウエスタンユニオン社だ。

1851年に創業され、電信事業を核としていたが、ベル電話会社との特許訴訟を回避するため、1878年に、電信を用いた送金事業を主軸とした。

ウエスタンユニオンは、他にも1866年に株式相場表示機を導入するなど、後の時代の金融サービスの根幹となるビジネスを開始した。

1909年にAT&Tがウエスタンユニオンの株を取得したが、1913年に反トラスト法違反で訴追され、手放すことになる。

ウエスタンユニオンはその後もライバルの小規模な会社を買収し続け、その数は500以上に上り、資金移動業の世界で確固たる地位を確立した。

<社会資本>

1920年代のアメリカがここまで発展を遂げ、産業が急成長出来たのには、少なからず、社会インフラが大幅に整備されたことも影響している。

自動車を買っても、道路が走れるように整備されていなければ意味がない。アメリカという広大な国を縦横無尽に走る国道は、ちょうど1920年代に整備された。

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主要な幹線道路は番号が振られ、ルート66や国道101号線などは今でも有名だ。

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それだけではない。アメリカの高速道路である、州間高速道路も、この時期から整備が始まった。東西南北を、週をまたいで直結するこの仕組みが、アメリカの交通を自動車中心へと変えていった。

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それに先行する形でアメリカ全土を走り、交通の要となっていたのは鉄道だった。

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1920年代は、アメリカの鉄道の全盛期だったといえる。好景気は旅客数を大幅に増やした。しかし、その後の世界恐慌や、自動車に交通手段を取られたことで、アメリカの鉄道は衰退していくことになる。

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この時代は、ニューヨーク市に地下鉄が整備され、都市交通の手段としてかなり影響力を持ち始めた頃でもある。

1930年には、年間乗客数が20億人を突破するまでになった。

1896年に、Brooklyn Rapid Transit Company 通称BRTが成立する。

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1903年には、Interborough Rapid Transit Company 通称IRTが成立。

この2つの民間企業が、ニューヨーク市内の地下鉄開発を主導することになる。

1904年に最初の地下鉄が開設される。

1919年にBRTが破産すると、それを受け継いで1923年にBrooklyn–Manhattan Transit Corporation 通称BMTが成立した。

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この時代既に、ニューヨーク市内の地下を縦横無尽に地下鉄が走る状態だったのだ。

さて、近代的な暮らしに必要不可欠なもので、まだ紹介していないものがあるはずだ。

そう、電力である。

1886年、ウェスティングハウスという会社が設立された。エジソンと同世代の発明家たちが、交流による発電と送電を事業化しようと試みたのだ。エジソンは直流を主張したのに対し、電流戦争とまで言われた。

結論から言うと交流が勝利し、発送電に活用され現在に至ることになる。

この時代、さまざまな電化製品が誕生し広く一般に普及していく中で、電力は必要不可欠なものとなる。

そして、生活に必要不可欠なものと言えば、上下水道だ。

産業革命以降、上下水道は民間主導で行われていたが、水価格の問題や、コレラチフスの蔓延、都市への人口の集中などがあり、1920年代には地方政府が主導で、上下水道の整備が全国的に一気に進んだ。

そして、この時代に整備されたものの極めつけが、マンハッタンの高層ビル群だ。

1920年代に入ると、急速な都市化と人口集中に対応し、狭い土地を有効に使うために、また急成長した企業がその威勢を他に見せつけるように、超高層ビル群が次々と建設されていった。

4階建て以下のビルなら買って取り壊してより高いビルを建てれば儲かる、と言った不動産業者の話もあったくらいだ。

当時はアールデコ調という建築様式が流行しており、この時期に建設が始まった高層ビルにも使用されることとなる。

代表的なビルをいくつか紹介する。

クライスラー・ビルディング(高さ320メートル)

1930年完成

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内装も豪華絢爛で、90年前に建てられたのが嘘のようだ。

エンパイア・ステート・ビルディング(高さ443メートル)

1931年完成

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GEビル・ロックフェラーセンター(高さ259メートル)

1933年完成

クリスマスシーズンには、巨大なクリスマスツリーが飾られることで有名

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株式市場の発展


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この時代を語る上で絶対に外せないのが、株式市場の発達である。

1817年にニューヨークのウォール街に証券取引所が開設されてから、南北戦争、第一次世界大戦を経て、上場する企業も投資家も増え続けた。それは1920年代も続いた。

この時代には一般人が株式市場に参加するようになり、信用取引も広く使われるようになった。

1920年代はさまざまな企業の株価が軒並み急騰したが、特に精彩を放っていたのが、先程紹介したこの時代に急成長した企業なのだ。

自動車産業のGMやフォード

鉄鋼業のUSスチールやベスレヘム・スチール

石油産業のスタンダード・オイル・オブ・ニューヨークやスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージーなど

情報通信業のAT&TやRCA

カタログを用いた通信販売業のシアーズローバック

家電製品のゼネラル・エレクトリック

送金ビジネスのウエスタンユニオン

などなど。

株式市場がここまで急速に広まったのは、エジソンが発明した株式相場表示機、通称ティッカーの存在も非常に大きい。

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証券取引所の立会場で株価が決まるが、それを電信で即時に伝え、手元のマシンが紙に印字してくれる。

インターネットがない時代にとても画期的なシステムと言えるだろう。

このティッカーに表示される株価から動きの特徴を読み取り、伝説の相場師として名を馳せた男がいる。

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ジェシー・リバモアだ。

複数回の破産と大金持ちになることを繰り返した彼は、1940年に拳銃自殺するまでウォール街にずっと名を轟かせていた。

1907年の金融恐慌の際、リバモアはひたすら空売りをし、株価の下落で大儲けしていた。そこにある人物から使者が送られてくる。国のために売るのをやめて貰えないかという相談だった。使者を送ってきたのは、J.P.モルガンだった。影響力の大きさが分かるだろう。

同じ時期に株式相場で富を築き、政界に影響を持つようになったのが、ジョゼフ・ケネディだ。ご存知ジョン・F・ケネディの父親にあたる。

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ケネディはRCAなど新進気鋭の企業の株式を保有し、1920年代の強気相場に乗り続けて財産を築いた。1929年の世界恐慌で株価が暴落する前に、靴磨きの少年が株を買ってるという話を聞いて全部売却し、難を逃れたという逸話はあまりにも有名だ。しかし実際は友人のアドバイスに従ったのであって、この話は作り話だという。

社会・文化

1920年代は、一気に大衆社会が花開いた時期でもある。人々は物質的なものに満たされると、余裕を持っていろんなことに興じ始める。

ジャズエイジ

南部の黒人音楽であったジャズも、その1つだ。20世紀初頭に生まれたばかりのこの音楽は、黒人のみならず白人の間にも広まり、当時急速に家庭に広まったラジオがその拡大に拍車をかけた。

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ハーレムルネサンス

ジャズだけではない。黒人が多く住むマンハッタンのハーレム地区では、黒人によるアート、文学、音楽、文化、芸術が花開いた。

コットンクラブ

ハーレムにあるナイトクラブ、コットンクラブもその中の1つだ。

出演者は全員黒人、観客は全員白人で、さまざまなパフォーマンスが繰り広げられることになる。

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チャールストン

また、この時代はダンスが流行したことでも知られている。チャールストンという新しいダンスが人々を魅力した。その代表的なダンサーが、ジョセフィン・ベーカーだった。黒人であること、扇情的な踊りをすることなどで知名度を上げ、この時代の世界的なダンサーとなった。

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映画

映画が発明されて間もないこの頃、音ありの映画が増えてきて、人々を魅力した。1927年の「ジャズシンガー」は代表的だ。

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フラッパー

またこの頃は、女子がこれまでの伝統的な形ではなく新しいファッションを取り入れた時期でもある。

膝丈の短いスカート、ショートヘアのボブ、ジャズ音楽などを好み、飲酒、喫煙、ドライブ、奔放な性生活などが典型的なイメージとなった。

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禁酒法

一方でこの時代は、社会的な不寛容が噴出した時期でもある。

1919年に全米で禁酒法が制定された。文字通りアルコールを含む飲み物は製造も販売も禁止された。

もともとアメリカでも禁酒運動は大昔から存在した。キリスト教系の女性団体などは、アルコールを飲むことで仕事をしなくなり家庭不和が生じるなどと訴えた。第一次世界大戦時に穀物を節約しなければいけなかったこと、アメリカ国内のビール業者はほぼ敵国ドイツの企業だったことなどを受けて、禁酒運動は更なる盛り上がりを見せた。

そういう経緯での制定だったのだが、実際は誰も守るつもりもないし、しっかり取り締まるつもりもないザル法だった。

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もぐり酒場

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その証拠に、ニューヨークだけでもぐり酒場は30000以上にのぼったという。この時代のもぐり酒場を、Speakeasyと呼ぶ。

サッコ・ヴァンゼッティ事件

そんな中、全米で議論を巻き起こした事件がある。マサチューセッツで発生した強盗殺人事件の犯人として、イタリア系移民でアナーキストのサッコとヴァンゼッティが容疑者として浮上した。

確たる証拠もないまま有罪となり、1927年に死刑が執行される。

現在では偏見に基づいた判決だったとされているが、当時も世界中で批判が巻き起こり裁判のやり直しや釈放を求めたデモも起きたほどだ。

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エリス島

アメリカは今も移民大国として知られている。トランプ前大統領自身もドイツ系移民だし、合法移民は認めている。移民なくしてアメリカの発展はなかったと言える。

この時代、移民がアメリカに到着したら、まずたどり着くのが、ニューヨークのエリス島だ。

移民局があった場所で、ここで適正検査を受けて晴れて入国となる。

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一方で、当時新興国家で急成長しつつあった日本とアメリカは、少しずつ対立していく。

不寛容の波はここにも押し寄せる。

1924年には、いわゆる排日移民法が成立。事実上日本人の移民を禁止するものだ。

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KKK

クー・クラックス・クランは、南北戦争後に出来上がった白人至上主義(厳密にはユダヤ人やドイツ人、カトリック、共産主義者も攻撃の対象となるが)の秘密結社で、第一次世界大戦後に再び勢力を増してくるようになった。

KKKのメンバーは、各地で黒人への暴行や放火などを繰り返し、政治家にも構成員や支持層、黙認する人などが多く現れることになる。

活動は1920年代に最も活発になった。

ただし、保守層から距離を置かれ、首領者が法的にも有罪判決を受けるなどしたため、やがて鳴りを潜めていくことになる。

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農業不況

1939年、ジョン・スタインベックの小説、怒りの葡萄が発表された。農産物価格の下落により収穫されずに放置される作物。土地を捨て、農家を辞めてカリフォルニアに移住する人々。悲惨な現状の伝わる物語だ。

だが、この原因となった農業不況は、第一次世界大戦後に供給過多で農産物価格が下落する所から既に始まっていたのだ。

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結論

我々がアメリカの狂騒の20年代から学べることはたくさんある。それはやはり、時代の流れをきっちり捉えていくことが大事だということだ。

「それが出来たら苦労しないじゃん」そう思われる方も多いだろう。もちろん、完璧に未来を予想することなどできない。しかし今の社会で起こっていることをいろいろ知っておけば、伏線に繋がりそうなのは見えてくるはずだ。そして過去に似たような局面がなかったかを探し、そこから学び取ることも可能なはずだ。

1918年〜1919年の間、世界は戦争以外にもスペインかぜのパンデミックによって大混乱していた。

さて、今はコロナウイルスのパンデミックによって世界中が大混乱している。社会活動も制限されている。一方で、ワクチンの接種開始と第3波のピークアウトも見えつつある。

世界中の政府が、それこそ戦時レベルの支出を行って経済を支えている。さてこのマネーが、経済活動が自由になったらどうなるか。

第四次産業革命は更に進行し、世界中で都市への人口集中が起きている。

これからの10年をどう生きるかは、すべてあなたにかかっている。







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