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ヴェニスの商人

アドリア海のシンデレラストーリー

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「ヴェニスの商人」という物語を聞いたことがあるだろうか?名前だけは聞いたことあるという人も多いだろう。かの有名なウィリアム・シェイクスピアが16世紀に発表した喜劇である。

物語の内容は、読んで字のごとくヴェネツィアの商人が主人公で、全財産が船に乗ってしまっている商人が友人にお金を貸すため、高利貸しのシャイロックに借りにいく。その際にシャイロックは担保として主人公の胸の肉1ポンドを要求した。簡単に返せるはずだったが、船が難破し運悪く返せなくなってしまう。そこで約束通り胸の肉を切り取って渡すよう裁判が起こされる…

舞台となった中世のヴェネツィアは、まさに貿易と商業が全盛期を迎えていた。

今回は、そんなヴェネツィア商人がなぜ栄え、我々はそこからどんなことを学べるのか、解説していく。 

ヴェネツィアと聞いて誰もが思い浮かべるのが、「水の都」というイメージだ。

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それは今も昔も変わらない

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まずヴェネツィアの地理を確認していこう。

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ヴェネツィアは海洋都市で知られているが、直接面しているのは、地中海だ。こう見ると、トルコやアラビア半島などの東側と、ヨーロッパを繋ぐちょうど中間地点にあたることが分かるだろう。

え?まずヴェネツィアがこの地図のどこにあるか分からない?ならもっと細かく見ていこう。

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これなら分かるはずだ。ヴェネツィアは、イタリア半島の東側の付け根部分にあたる。面しているのは地中海の中でもイタリア半島と東欧諸国に囲まれたアドリア海だ。

ヴェネツィアはアドリア海の干潟の上に造られ、120余りの島が150を超える大小の運河に架かる400の橋で結ばれている。

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小さな島々を橋と運河で繋いでいる状態で、道路は狭く人が歩くのが精一杯だ。なので、交通手段は昔から変わっていない。

ゴンドラと呼ばれる小型船だ。

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今でこそ風光明媚な観光地となっているが、なぜ人々はこんな場所にわざわざ住んで商売をすることになったのか、その始まりを見ていこう。

時は5世紀に遡る

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ゲルマン人の大移動が始まり、ヨーロッパ全域に広がっていた。イタリアにも5世紀に到達。(ランゴバルド人)

イタリア人たちは安全な場所を求めて、入り込みにくい干潟へと移動。452年に現在のトルチェッロ島に辿り着き、定着。ここからヴェネツィアの歴史が始まる。

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人々は侵略者から身を守るため、互助組織を形成。そして指導者を選ぶようになる。7~8世紀頃には、ヴェネツィア共和国が成立した。

756年、ドメニコ・モネガリオが指導者になる。この治世で、ヴェネツィアはただの漁村から港町・商人の街へと変貌を遂げた。造船技術も格段に進歩した。

また、古代ローマを模して護民官が制定された。毎年二人の護民官が選出され、指導者の執政を監視、権力の濫用を防いだ。

またヴェネツィアでは信教の自由や法の支配が徹底されていた。

こういった風土も、商業が発展するのに大いに貢献しただろう。

事実、ここからヴェネツィアは快進撃を遂げる。

この当時、ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国の保護領として成立していた。

東ローマ帝国はローマ帝国が東西に分裂してから長きに渡り、トルコや東欧などを支配していた。

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一方西ローマは、ゲルマン人の侵攻により分裂し、さまざまなゲルマン人の国家が建設された。 

この板挟みになりながらも、独自の文化や技術、商業を発展させることで、豊かな小国を実現し、独立を保ったというわけだ。

811年からのパルテチパツィオ家の治世に、橋・運河・防壁・要塞・石造建築を充実させ、街を海上へと拡張した。これにより、ヴェネツィアの街はぼ現代と同じ所まで変貌を始めた。

そして、東ローマ帝国のバシレイオス2世金印勅書によってヴェネツィア商人に免税特権を与えた。

これがヴェネツィアの発展を更に加速させる要因となる。

この頃から、ヴェネツィアの関心は内陸側ではなく、外、つまりアドリア海に向いていた。

1000年頃には沿岸地域の都市を多数支配していたのだ。

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では、このヴェネツィアの発展を支えた商品は一体何だったのか。どんな商売をして大儲けしていたのかについて見ていこう。

ヴェネツィア商人のメインで取り扱っていた商品がこれだ。

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香辛料、特に「コショウ」である。

中世、特に12世紀以降のヨーロッパでは、コショウが必要不可欠な存在になっていたのだ。コショウは抗菌・防腐・防虫作用が知られており、冷蔵技術が未発達であった中世においては、料理に欠かすことのできないものであった。食料を長期保存するためのものとして極めて珍重されたのである。

ではコショウの原産地はどこか?

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インド南西部のマラバール地方や、

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マレー半島・インドネシアなどの東南アジアなのである。

ヨーロッパから遠く離れた場所であり、まだヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ周りでインドへ行く航路を見つけていない時代。

インドと取引する海のルートは1つだけだ。

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紅海アラビア湾を通り、インド洋を通るルート。

そして当時、紅海、アラビア湾、インド洋の貿易ルートを支配していたのは、ムスリム商人だった。

まだ石油の採掘などしていなかったこの時代、アラビア半島や中東、北アフリカは東西の交通の主要地点となっており、イスラーム教徒の国家がかなりの豊かさを誇っていた。

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これはアッバース朝というイスラーム王朝だが、この時代から貨幣経済が発達しており、金銀複本位制をとっていた。経済の拡大に貴金属の供給スピードが追いつかなくなると、銀行業が発展し、小切手による取引が一般化した。

イスラム法では、商業に対する規制は緩かった。

更に、アッバース朝は複式簿記も生み出した。

これがヴェネツィアなどに伝わったことも、発展の要因とはなる。

そして、12世紀頃には、ファーティマ朝が地中海交易を支配していた。 

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では、ヴェネツィア商人の出る幕は無いのでは?どうやってコショウで儲けていたのか?

その答えは、イスラーム世界からヨーロッパを繋ぐ交易、「東方貿易」 だ。

インドや東南アジアで収穫されたコショウは、カーリミー商人というムスリム商人が、地中海沿岸のイスラーム世界、カイロやアレクサンドリアへ運んだ。

それをヴェネツィア商人が買い付け、自分の都市へ持ち帰り、ヨーロッパに運ぶだけ。ある意味一番美味しい商売である。しかしそれで儲かったのだろうか?

これがぼろ儲けだったのだ。

例えば、東南アジアでコショウが1で売られてるとする。カイロやアレクサンドリアに運ばれてくる時には、これは5になる。ヴェネツィア商人がヨーロッパに売る時は、25だ。

更に、当時十字軍が結成されたことも、東西の交流を増やすことになった。

十字軍とは、簡単に言ってしまえばキリスト教世界が軍を組織してイスラーム世界に攻め入って滅ぼしたり滅ぼされたりする行事のようなものだ(言い方)

ヴェネツィア商人も、この十字軍に協力したりして分け前に預かっていた。ちなみに、この十字軍は後にキリスト教世界であるはずの東ローマ帝国も滅ぼしてしまう。

それがオスマン帝国の勃興を招いて、ヴェネツィアが衰退し、やがてナポレオンによって滅ぼされてしまうとは、この時は知る由もないのであった…

ここから我々が学び取れることは、知恵を絞って豊かな小国として暮らすのもアリだということだ。

なにも国単位でなくとも、自身を1つの国と例えるとどう立ち振る舞っていけば良いか?自分のポジションはどういうものか、考えることが、豊かな生活に向かうヒントかもしれない。


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