見出し画像

大航海時代

”世界”はこうして広くなった


1295年、あるヴェネツィア商人が長い長い旅から帰還した。

彼の名はマルコ・ポーロ。

画像1

代々東方貿易に従事する商人の家に生まれた彼は、父親兄弟とともにアジアへの旅に向かう。

25年もの間、旅に出ていた彼が蓄えた知見は、1298年にジェノバに投獄された際、著述家のピサに口述され、これが『世界の記述』として発表されることとなった。

画像2

これは当時のヨーロッパ世界の人々に衝撃を与えた。

インドの、輸出向けの胡椒や生姜、藍などの産業。

画像7

泉州の港はインドから香辛料を運んでくる船で埋め尽くされ、アレクサンドリアに負けずとも劣らない商港。

画像4

元の大都のカーン宮殿の広間は金箔銀箔を張り詰めた壮大なつくり。

画像5

杭州の大規模な家内工業とレンガ造りの街並み。

画像6

黄金の国ジパングでは国民みなが黄金を持ち、宮殿の屋根や床は純金で…

画像7

ヨーロッパの人々は東方にますます憧れや関心を抱くようになっていた。

十字軍の遠征などで東西の交流が増えていた時代ではあったが、ここから更にヨーロッパ諸国は外へ目を向け始める。

大航海時代の始まりである。

画像8

では外に目を向けて、ヨーロッパの人々は何を得ようとしていたのか。

★ まず1つめは、香辛料だ。

中世の時代から、ヨーロッパは胡椒を欲していた。食料保存に欠かせない存在だった胡椒は、銀と同等の価格で取引されていたこともある。

画像9

他にも、シナモンやクローヴなども重宝された。

画像12

これらの原産地は、インド南西部とインドネシアやマレー半島。東南アジアでしか獲ることができないのだ。

この香辛料を運んでくる海上ルートは、当時1つしかなかった。

インド南西部の海岸からインド洋を通り、紅海、地中海を通るルートだ。

画像13

しかもこの15世紀頃からは、ムスリムの国家であるオスマン帝国が急成長しており、東南アジア→地中海→ヨーロッパというルートが危ぶまれつつあった。

画像10

そのため、新たな香辛料を運ぶルートを開拓する必要に迫られていたのだ。

★2つめは、黄金だ。

画像11

ジパングなど、遠い世界には黄金がたくさんあると信じられていた。そのため、黄金を求めて新たな土地へ向かうという野心が芽生えていたのである。

★そして3つめが、領土だ。

この15世紀後半から16世紀にかけての時代、ヨーロッパに強力な中央集権国家が誕生した。

現在のスペインとポルトガルがあるイベリア半島は、実は長い間イスラーム王朝によって支配されていたのである。

そして、キリスト教勢力はこの失った土地を取り戻そうと、イベリア半島のイスラーム王朝に対して攻撃を繰り返していた。

これをレコンキスタ(再征服)と呼ぶ。

画像14

1031年に後ウマイヤ朝は滅亡。それ以降イスラーム勢力は分裂し、キリスト教勢力は失地回復を進めていったのだ。

一方で後ウマイヤ朝の圧力が弱まってからはキリスト教勢力も内紛をし、分裂と再編を繰り返している状況だった。

画像15

15世紀に入ってからも、キリスト教勢力はイベリア半島からイスラーム勢力を追い出そうとレコンキスタを進めていた。

そして、イベリア半島のキリスト教勢力で大きくまとまっていたカスティーリャ王国アラゴン王国が合併。1479年にスペイン王国が誕生した。

画像16

ポルトガル王国とともに最後のイスラーム王朝への攻撃を進め、1492年、レコンキスタは完成した。

「イベリア半島をイスラーム王朝から取り戻す」

ということで大きくまとまっていたキリスト教国家は、強力な中央集権体制を成立させる。

そして、国内がまとまると、次に目指すのは海外!となるわけだ。

スペイン王国やポルトガル王国など、強力な中央集権国家が新たな領土を求めた。それも大航海時代のきっかけとなった。

なぜ長距離の航海が可能だったのか?

でも、行きたいという気持ちがあっても、15世紀から16世紀になぜそんなことが可能になったのか。

・造船技術の進化

1つは造船技術の進化だ。この頃に、頑丈なキャラック船などが建造されるようになり、外洋航海が可能となった。

画像17

・羅針盤の改良

画像18

中国からイスラーム世界、そしてヨーロッパへと伝わった羅針盤は、この頃に改良が重ねられ、航海に役立つものとなった。

・投資家と冒険者の棲み分け

そして欠かせないのが、危険な航海を買って出る冒険家と、多額の資金が必要な航海にお金を出す投資家の存在だ。

大航海時代の幕開けの直接のきっかけとなったエンリケ航海王子が、その関係性の先駆けといえる。 

画像19

1394年にポルトガル王国の王子として生まれた彼は、引きこもりながらも航海と冒険への憧れがあった。(昔の私と重ね合わせてしまう)

1416年、ポルトガルの南西端に村を建設し、造船所や気象台などを作る。

そして1419年、エンリケが資金を出し、トリスタン・ヴァスらが実行した航海で、ポルトガル沖、アフリカ大陸西側に浮かぶマデイラ諸島が発見された。

エンリケの快進撃は続く。

さまざまな冒険や航海に投資していき、特に西アフリカの開拓に熱心だった。

1434年にはカナリア諸島を超えた場所にあるボハドル岬に到達。

1441年にブランコ岬

1445年にはセネガル川ヴェルデ岬に到達した。

画像20

やがてギニアサハラ砂漠南端へと到達したエンリケの一団は、大量の金を発見し、持ち帰ることに成功する。

この頃の航海は危険そのものだったが、成功すれば莫大な富が転がり込む。それに魅了された男たちは冒険をしたがった。

一方お金を出す王侯貴族なども、危険な航海を買って出てくれて、上手く行けば高いリターン(財宝や領土)を得られるため、こぞってお金を出した。まさに、「ベンチャー投資家」というわけだ。

この時代のベンチャー投資家としてもう1人有名な人物がいる。スペインの女王イサベル1世だ。

画像21

特に彼女の支援は、”世界をさらに広くした”といえる。ではそんな冒険をしていった”ベンチャー起業家”たちの実績を見ていこう。

アメリカとアジアへの進出


1488年、ポルトガル国王ジョアン2世の命を受け、アフリカを大回りしてインドへ向かう交易ルートを見つけるべく航海に出たバルトロメウ・ディアスは、アフリカ最南端の喜望峰に到達した。

画像22

そんな中、別の方法でインドを目指した者がいる。

当時の人々は、『地球平面説』といって、地球は平らで最果ては恐ろしい場所だと結構な割合で信じていたのだ。科学者の間では地球は球体だというのは知れ渡っていたが、船員たちは必ずしもそうではなかった。

そんな中、クリストファー・コロンブスは、地球は球体であるのだから、西へどんどん進んでいけば、インドに辿りつくはずだと考え、スペイン王室に掛け合って資金調達に成功する。

画像23

そして、1492年、コロンブス一行はインドへ向けて航海に出た。

一旦カナリア諸島へ立ち寄ったあと、一行は大西洋を一気に西進した。

画像30

見てわかる通り、大西洋はほとんど島がなく、船員たちの不安は募っていった。そして、3日以内に大陸が見つからなければ引き返すと約束した。すると、流木が見つかった。近くに陸があると船員を説得し、航海を続行。

そしてたどり着いた。インドではなく、アメリカ大陸に。

大西洋を真っ直ぐ突っ切っても、アジアには辿りつかないのは今の常識だ。しかしこの時代はアメリカ大陸が発見されていなかったのだ。そんなこと分かるはずがない。(コロンブスも、アメリカを発見した!と気付いたわけではなく、インドにたどり着いたのだと思っていた)

彼らが最初に着いた土地は、サンサルバドル(聖なる救世主)と名付けられた。

画像25

「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した」
「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄をまったく持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達とともに、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた」
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した」

この島で難なく略奪に成功した一行は、次々とカリブ海の島々に辿りつく。

同年にキューバ島

画像26

翌年にはイスパニョーラ島(ドミニカとハイチの島)に到達した。

画像27

1493年にスペインに帰還したコロンブスは、約束通り分け前を受け取った。

晩年、イサベルはコロンブスが送ってきた奴隷を送り返し、統治がどうなっているのか調査員を派遣すると言った。本国に赴いて釈明し罪は免れたものの、インディアンに対する虐殺はこの頃から始まり、更に苛烈なものとなった。

また、この頃からアメリカ大陸においてスペインとポルトガルによる植民地獲得競争が激化した。そこで、1493年、教皇アレクサンデル6世によって植民地分界線が定められた。

経度によって新天地を2つに分けて、こっからこっちはスペイン領、みたいに分ける取り決めだ。

しかしあまりにスペイン有利であったため、ポルトガルが異議を唱え、ラインが西側にずらされた。この時、線が被った地域にブラジルがあるわけだが、これはポルトガルの打算があったものなのだろうか…

そうして1494年、トルデシリャス条約が成立する。

画像28

また、イギリス王ヘンリ7世の命を受けたジョン・ガボットは1497年ニューファンドランドへ向かった

画像29

1498年、冒険の本来の目的をようやく達成したと言えるかもしれない。ポルトガルの冒険家ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカを大回りしてインドへ到達するルートを発見したのだ。

画像30

リスボンを出港し、カナリア諸島、喜望峰を通り、マリンディやモンバサなどアフリカ東岸の港町を経由、インドのカリカットへ到達したのだ。

アメリカ大陸においてスペインに大きく穴を開けられていたポルトガルは、この成功に胸を撫で下ろしたことだろう。

また、アメリカ大陸においてもポルトガルが成果を出した。

1500年カブラルがインドへ向かう往路の途中、偶然ブラジルに到達したのだ。

画像31

続いて、ポルトガルが1510年にインドのゴアを占領。

画像32

1511年、ポルトガルがマレー半島のマラッカを占領した。

画像33

1517年には、ポルトガル人が広州に到達。

画像34

1518年にスリランカを占領した。

画像35

一方スペインも、1513年にバルボアパナマ地峡を発見、横断し、太平洋を発見した。

そして、1519年からスペインのフェルディナンド・マゼランが西周りでアジアに向かう航路を開拓すべく旅に出た。

画像44

マゼラン一行は、南米のいくつかの港を経て、最南端のパタゴニアに到達。

そこから太平洋を横断してアジアに向かうのだが、これが問題だった。

波こそ穏やかなものの、太平洋にはほとんど島がなく、立ち寄って資源の補給をすることが不可能だった。やがて水は腐り、食料は底をついた。ネズミを見つけると皆こぞって捕まえ、食べた。

この頃の航海はビタミン不足からなる壊血病が問題となっていたが、マゼランの一行も例外ではなく、食料も底をついていたため深刻な栄養失調に陥っていた。

そんな中、1521年グアム島へ上陸、1週間後にフィリピン諸島へ上陸した。

マゼランはフィリピンでキリスト教の布教をするが、途中から強引なやり方になったため現地の王の軍により戦死させられる。

生き残った僅かな船員がスペインに辿りつくことで、1522年に世界周航を成し遂げた。

また、スペイン人のコルテスがメキシコ中央部に位置するアステカを発見。

画像39

1521年に征服した。

画像36

アステカの都であるテノチティトランは、湖の上に作られた巨大都市で、人口は20万人ほど居たと言われている。

画像37

しかしスペイン人の侵略者(コンキスタドール)によって徹底的に破壊され、その上にヌエバ・エスパーニャ(スペインのメキシコ領)の首都、メキシコシティが建設された。

画像38

また、この時に金銀財宝の略奪、強姦、虐殺などが行われ、ヨーロッパの疫病も広まったことでアステカの人口は最盛期の100万人から、10万人ほどにまで減ってしまう。

同じくスペイン人のピサロもまた、文明の破壊者として知られている。

画像40

彼は現在のペルーやボリビアなどに位置した、インカ帝国を発見した。

画像41

マチュピチュなどで知られているインカ帝国は、文字を持たない文明であった。

画像42

ピサロの一派はインカ皇帝を処刑し、首都のクスコに無血で侵入し、1533年に征服した。

画像43

しかしスペイン本国から死刑判決を受け、南米での利権を巡って敵対していた人物によって暗殺され、埋葬されないままミイラとなった。

一方、こうした残虐行為に異を唱えた人もいた。

ラス・カサスはスペインの司祭であり、コンキスタドールと共に南米へと旅をしていた。しかし、そこで初めて残虐行為を目撃する。

1514年、良心の呵責に駆られたカサスは自身が所有していた領地と奴隷を放棄。

翌年から、植民地でのインディオの扱いに関して改善するよう本国でロビー活動を行った。

インディオは奴隷として酷使され、また虐殺で数を減らし、南米へ逃亡するものが後を絶たず、奴隷労働力としてすでに役に立たなくなっていた。このため、ラス・カサスはインディオに代わって西アフリカから運ばれた黒人奴隷の利用を考えるようになる。

しばらくすると中南米でアフリカから来た黒人奴隷を働かせるのが一般的となる。

一方、カサスはインディオの保護活動を積極的に行い、植民地のスペイン人からは反発が起こった。

晩年は修道会から保護を受け、書籍をまとめるようになる。きちんとこのメッセージが伝わるようになるで発表しないように遺言も残した。また、この頃には黒人奴隷の使用を提案したことも後悔し、奴隷制そのものの廃止を訴えるようになった。

結果

ヨーロッパはアジア世界と直接交流する経路を手に入れた。

スペインやポルトガルはアジアやアメリカ大陸で植民地を手に入れた。やがてこれはオランダに奪われ、イギリスやフランスに奪われることになる。

アジアや南米からもたらされた大量の銀は、インフレを引き起こした。これを価格革命という。

また、ヨーロッパはアジアとの直接交流、アフリカとアメリカ大陸との間で奴隷の取引や、毛織物の輸出など、さまざまな土地と原材料や製品のやり取りをするようになる。これを商業革命という。

結論

モラル的な問題はあるとはいえ、この時代の冒険家たちは、ベンチャー起業家であった。自分が何を出来るか、どのような方法でやるのか、高いリターンをもたらすことを目的に大金を調達することなど、何をしたら良いかを学びとることができる。

自分は今の時代にどんな冒険をしたいのか。投資家に何をもたらすことを約束してお金を集めるのか。どのように航海をするのか。基本的なことだが、大事なことだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?