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チェーンソーマンで考える「足るを知る」

 「足るを知る」ってなんか響きがいい言葉で自己啓発本でよく見る。「身分相応に満足することを知る」という意味で、欲張らずに現状に満足することの大切しようってことか。果たしてそれは幸せなのか、チェンソーマンの1部のデンジに置き換えて考えてみた。

足るを知るのは状況次第?

 デンジくんは当初ご飯が食べれて衣食住が揃っていれば満足という感じでした。これは親父の作った借金が多すぎたため、生理的欲求がそもそも満たされておらず、より高次元の欲求ステップに進めない状況にあったためだろう。


 そのため、デンジは単行本1巻で「もう夢にゴールしちまってる」と言っています。同時に他者には叶えたい「夢」があることを知ります。借金返済生活から社会に出たことで他人との比較をいやおうなしにする状況になったのだと思います。

社会で生きるから足るを知りにくくなる?

 先ほどの書いたようにデンジが社会に出たから、他者との比較によって、何かに所属したい社会的欲求、自分を認めてもらいたい承認欲求が生まれてきた。アキくんが死んだ時、半ば自暴自棄になってマキマさんの部屋に行った時、「(アキを殺した)自分の行動は間違ってなかったよ」と言ってもらいたかったのかと私は思います。

しかし、承認欲求を他者に求めることは依存関係を生み、欲求のループに陥ってしまう。モノを得るのも同じで、自分が納得しないとより良いものを求め続けるのが人間だと思う。今のスマホで十分なのに新機種に変えるとか…?

 つまり、ものがたくさんあって他者との比較、競争に常に察らされる状況だと足るを知るのが難しいですよねっていうのを作者は伝えたかったんじゃないかなと思う。環境は恵まれているのに逆に不幸じゃない?みたいな…

納得して自己実現することの難しさ

 最終的にデンジは自分で「チェンソーマンになりたい」と言います。これは今までのチェンソーマンであること求められてきたのではなく、自分で状況を理解し、考えて納得して出した言葉なのだろうと思う。周りと同じようにひっそりと暮らすこともできたが、あえてリスクを理解したうえで、誰からの承認を得たわけではなく結論をだしたのだろう。


私はこれが現代における「足るを知る」なのかなと思いました。

 デンジくんみたいに周りがガラパゴス的で衣食住だけ揃ってれば…というのは現代社会からはかなりアウトローなことですよね。私たちは、SNSやメディアから飛び交うキラキラしたことば、自己啓発的な考え方にいつもさらされていますが、そういうものがあるってことを腹におとしたうえで、「じゃあ自分は何がしたいか」と結論を出す。
 そう言うのは簡単だけど、会社、学校とかの組織のいち員として生活するのであれば、自分の置かれた状況が苦しいと感じる時もあるかもしれません。そんな時こそ、落ち着いて状況を理解し、納得できる結論を出していけば少しは毎日幸せを感じれるのかなと思いました。

だから私はメモ書きしてます。最後ステマみたいになってしもうた。
おしまい。

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