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そして私は家族で食卓を囲まないことを選択した

私は食卓は家族で囲むべきものという価値観を持っている。孤食という言葉を知り、我が家ではそんなことをさせまいと決意していた。家族で食卓を囲む、これはきほんの「き」であり、家族の絆の根幹をなすとさえ思っていた。

ところがである。長男、長女、次男、さらには妻までもが、食卓を囲むことを望んでいないのだ。みーんな、YouTubeを見ながら食べたいのだと言う。

ありえへんで!

すみません、関西人でもないのに。

もちろん、最初は到底受け入れられなかった。ご飯を食べ終えたらYouTube見てもいいよとやってたころもある。しかしそうすると、食事が「やらなければいけないこと」になりさがり、家族団らんとは程遠くなった。

ちなみに食事は私が作っている。それもあってみんなにおいしく食べてもらいたいという思いが強くあるのだけど、食事が「やらなければいけないこと」になってしまうと「おいしい」という言葉が出なくなって、それはそれでつらい。

本件について、妻の主張が2点ある。この2つは核心をついている部分が大きいと思うので、ひとつずつ取り上げてみたい。

1.食事中、手持ち無沙汰になる

なにもせずに、つまりYouTubeなどを見ずに食べていると、手持ち無沙汰になると言うのだ。これは感覚的に分からないでもない。私もひとりで外食をしているときなどに感じる。

しかし、家族で食べているのだから、家族との会話を楽しめばいいのではないか。そう思う読者のみなさんも多いのではないだろうか。もちろん私もそう思っていた。ところが、妻にとって誰かと話すことが、それが家族であれ、疲れるし好きではないということがあるらしい。

なんでやねん!

また関西弁になってしまったが、それは妻にとっての真実なのだろう。私には分からんけども。でもおそらく、長男も妻と同じタイプだ。ただ食事だけに向かえと言われると落ち着かないのかもしれない。

そして『食卓を囲むのは家族団らん』という考えは、もしかするとコミュニケーションにストレスを感じない人による、一種の暴力的な押し付けなのかもしれない。

2.家族とのコミュニケーションを取るのが目的なら、そんなん、食卓でなくてもいいやろ

これは私自身、なるほどなあ、と気づかされる面も大きかった。食卓を囲みながらコミュニケーションを取らなくてはいけないという固定概念に私がとらわれていたのは事実だ。

例えば我が家で言えば、YouTubeなどが見られるのは夜の8:30までと決まっていて、その後、寝る準備、絵本タイムをへて、みんなで布団に入る。

だから子どもたちとコミュニケーションを取りたいのなら、絵本タイムや布団に入りながら取ればいいではないか。それが妻の意見だ。で、実際、そのほうがうまくいく。大好きなYouTubeはもう見られない時間だから、子どもたちも気持ちを切り替えやすいのだろう。

これのちょっとした問題は、今度は私のほうに家族団らんをするだけの元気が残っていないことが多い点だ。9:00を過ぎるとこっちも疲れちゃって。年のせいだろうか・・・。でも、それって妻が「食事中に会話をする元気がない」と言うのと根本的に違いはないよなあ。余談だが、寝る直前に妻が子どもたちとコミュニケーションを取っているかというと、必ずしもそんなことはなく、誰よりも先に寝ていることも多い。

とまあ、以上2点が妻の主張なんだけれども、これだけであれば、私もまだ妻に言い返して、食卓を囲む大切さを説くことができたかもしれない。でも、私がそれをしないというかできないというか、ある意味敗北を認めたのは、子どもたちがYouTubeを心から楽しそうに見ていること、そして布団に入って妻と楽しそうに話す姿を目の当たりにしているからである。我が家ではママの隣で誰が寝るかを、子どもたち3人がローテーションで決めているのだ。

「きょうは、ぼくが、ママのおとなり~」

「きょうは、わたしが、ママのおとなり~」

を毎晩聞かされる。私の横で寝たいとはならない。これは敗北以外のなにものでもなかろう。全面敗訴。

だから、私は今日もまた、家族全員がそれぞれの端末で見ているYouTubeの大音量のカオスのなか、孤食をするのである。

(自虐的にしめくくったけど、そこまで悲観はしていません。ただ、うるさいです)

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