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SNSで情報発信するときの向き合い方を法律の学説風に整理してみた

以前に、こんなnote記事を書いたことがありました。

要約すると、何に関することでも、いろんな意見を見ているうちに次第にまとまってきて、そのうち法律の学説っぽく並べられるようになるんじゃないか、という記事なんですけど。


それで、いろいろ「SNS論」みたいなものを目にしてきて、自分のこれまでの浅い見聞からなんですけど、これも学説風に並ぶんじゃないか?と思いついたのでちょっと書いてみたいと思います。

法律の学説“風”に整理する、というネタなので(笑)、以下のように「論点」を設定したいと思います。

もちろん、筆者の独断と偏見ですので、「違うよ!」というところもあるかと思いますが、ご容赦いただければ幸いです(汗)。


論点:SNSで個人が情報発信することの(発信者にとっての)価値とは何か?


3つの説

以下、大きく3つの説に整理してみたいと思います。

A説(稼ぐために発信をするという説)
B説(コミュニケーションのために発信をするという説)
C説(発信は自分磨きになるという説)

の3つです。以下、順に書いてみます。

A説(稼ぐために発信をするという説)

SNSによる情報発信によって、個人でも大きく稼ぐことができる、とする説。
→帰結として、会社に縛られる時代は終わりを告げた、あるいは、副業や複業として稼ぐことができ、無理してやりたくないことをやらずに済む、そうすれば、人生をより豊かに生きることができる、と説く。

この説は、いわゆる稼ぐ系インフルエンサーの方々が、日々、高クオリティの情報を発信されているもの。SNSの「攻略法」といった表現で(※本記事ではブログドメインのSEO戦略といったものも含む意味として使います)、数値を「ゲームのように」伸ばしていく、という価値観を持つ。

個人の発信も、ビジネスとして行う場合は、息抜きではなく「コンテンツ」がすべてであり、攻略するには「有益性」(典型的には、稼げる、モテる、面白い、のどれか又は複数)を軸にした戦略が必要であると説き、そのテクニックを、オンラインサロンやYouTubeやブログでシェアする(有料のものも無料のものもある)。

SNSのことを「評価経済」と呼んだりもする。人の経済的価値側面を、従来のように「年収」(フロー)や「資産」(ストック)で見るのではなく、あるいはこれらと併せて、フォロワー数によって可視化された「影響力」の大きさで見ようとする。

「影響力」は、その数値によって表現されるところの、ある種の「クレジット(信用)」であると捉え、それがあれば、自分のプロダクトをつくるでも(本や講演や商品など)、広告フィーで稼ぐでも(広告ビジネス)、他人から投資を受けるでも(クラウドファンディングなど)、金銭化することは後から何とでもなる、という流れを想定する。


B説(コミュニケーションのために発信をするという説)

SNSの本質は、「蓄積効果」による「プルのコミュニケーション」であり、特に組織で働くビジネスパーソンは、これを実名と組み合わせることによって本業をブーストすることができる、とする説。

→これは徳力基彦さんの「『普通』の人のためのSNSの教科書」という本に顕著な意見です(筆者的にもすごく好きな本です)。※以下はアフィではありません


「蓄積効果」というのは、継続的に発信を続けることにより、そのアカウントやドメインに「人となり」が滲み出るようになり、それが、共通の関心をもつ人を引き寄せ、ネットを通じて多様な人々と自分を出会わせてくれる(=プルのコミュニケーション)、ということ。

特にSNSは、リアルだけでは決して知り合えるはずのなかった人たちと急に接点ができる出来事が起こったりすることがあり(これを、いい意味で「ハプニング」と呼ぶ)、仕事や人生の大きな起爆剤となることがある、と複数の実例を挙げつつ説明する。

この説は、SNS自体は多くの場合テキスト媒体であって(TwitterやFacebookなど)、広告単価は低く、必ずしもそれ自体で稼ぐのには向いていない、と説く。個人の情報発信を「コンテンツメディア」と捉えるA説のような使い方は、広い視野で見た場合には一部の特殊な人たち(=尖った人たち、プロフェッショナル性の高い人たち)の使い方であり、もうちょっと冷静になってもいいんじゃないか、と語りかける。具体的には、「自分のためのメモ」を書き続けることでも、十分に「蓄積効果」を得ることができる、とアドバイスする。

「フォロワー」や「スキ」の数というのは、「数字」ではなく、その向こう側に「人」がいるという価値観を持つ。リアル世界でもひと1人と知り合って交流が生まれるのは凄いことだが、それはネットの世界でも同じであり、「普通」の人、会社で働く人のためのSNSのあり方としては、その考え方の方がフィットしやすい、とおススメする。


[コメント]
このA説とB説は、なんとなく対立軸みたいなものが見えるので、こうして並べるとわかりやすいんじゃないかな、と。ざっくりいうと、「マネタイズ積極説」「マネタイズ消極説」みたいな感じ。

また、「数字を追いかける価値観」と「(意識しないわけではないが)必ずしも固執しない価値観」みたいな感じもします。

なお、誤解しないでほしいのですが、2つの説がケンカしているというのではなく、対(つい)になってるような感じがする、という意味です。

ちなみに自分の場合は、A説的な話をYouTubeとかで見て、「なんか世の中は凄いことになってるっぽいなー」という感じで遅れてノコノコ出てきた感じなので(笑)、A説的なところから入りつつ、B説的な意見を見て、ちょっと安心したというか、肩の力が抜けたような感じですかね。

「ソーシャルネットワーキングサービス」であって、もともとはコミュニケーションツールのはずですし、個人的には、B説がある意味本来的な使い方なのかな、という気はします。


C説(発信は自分磨きになるという説)

発信者とSNSは、「発信が自分を作り、自分が発信を作る」という関係にある。つまり自分磨きになるという説。

先日のマナブ@バンコクさんのツイートとブログに、端的に表現されていました。


これはつまり自己鍛錬というか、トレーニングになる、ということですよね。

マナブさんはたしか、Twitterは「マイクロブログである」という喩え話もされています。自己理解につながるとか、おもしろいトピックを探すようになるとか、自分にとって必要ない情報は遮断できるようになるとか、そういう自己鍛錬、自分磨きに役立つ、ということを言ってるんだと思います。


折衷説(統合説?)の爆誕

さて、ここから、法律の通説“風”な展開をしてみたいと思います(←強引?w)

法律の論点って、だいたいのパターンなんですけど、「あれっ、これよく考えてみたら、対立してなくね?(同時に成り立つのでは?)」という思考パターンがあって、うまくあわさって折衷説になり、それが通説になる、みたいなパターンが多いです。

本記事の各説も、よく見てみると、相互に排他的じゃないですよね。

そうするとどれも、情報発信という行為の一面を切り取っただけだ、ともいえるわけです。

そうするとこういう風に統合できる、ということで、統合説を爆誕させてみたいと思います(論者は、筆者1人笑)。


D説(多元説)

A〜C説は、どれも情報発信の側面をある方向からそれぞれ照らしたもので、相互に排他的ではない(両立しうる)。つまり、難易度や見返りの度合にあわせて、以下のように統合することができる。

<以下のどの価値もある>
① C説のいう「自分磨き」としての価値
(難易度:易、即物的な見返り:なし)
 
② B説のいう「プルのコミュニケーション」としての価値
(難易度:中、即物的な見返り:中)
 
③ A説のいう「稼ぎ」としての価値
(難易度:高、即物的な見返り:大)


ゆえに、自分にフィットする価値観や、投下できるコスト(時間、お金、気力)に応じて、各人が自由にその目的を選びとればよい。あるいは、段階的に進んでいくのもアリである。


余談をひとつ:昔あった「知る権利」の論証

と、他にもきっと見方あると思いますけど、とりあえずこんな感じの並びになりました。まあネタなので、優しい目で見てもらえれば幸いです(笑)。

それにしても、こんな話をできること自体が、すごいことだと思うんですよね。

昔、憲法の論点で、「知る権利」について、以下のような論証の書き方がありました。ちなみに、論証っていうのは、法の明文にないことをどうやって導き出しますか、という解釈論の展開のことです。
(「知る権利」とは憲法に書かれていない。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(21条1項)と書かれているだけ。)

表現の自由はそもそも情報の流通を保障しようとする権利であるところ、現代社会においては、マスメディアの発達により、情報の送り手と受け手の分離が顕著となって多くの国民が情報の受け手の地位に固定化されており、表現の自由を受け手の側から再構成する必要がある…

みたいな感じの論証です。国民は情報の受け手の地位に固定化されており…といったフレーズがありました。

これ、元ネタが何かわからないんですけど(たぶん芦部先生のなにかの本をベースに当時の司法試験予備校がつくったもの?)、つまり、こういうニュアンスのことです。

表現の自由っていうのは、一見、意見や思想や事実をアウトプットする、外部に出すだけの自由のように見える(語感的には)。けれども、アウトプットしようにもインプットしないとできないわけで、表現の自由というのは本来は、アウトプットしたりインプットしたり、情報がグルグル回っていくそのプロセス全体を保障している権利のはず。でも、多くの国民が情報の送り手になれない状況の下、受け手としての地位(知る権利)をちゃんと強調しないと、表現の自由が意味なくなっちゃうよ…みたいな感じの意味です。
(←個人的にはそのように理解していました。もちろん答案に書くときにこんな書き方しないですが笑)


でも、SNSとか見てると、もはや「情報の受け手の地位に固定化」って言われても、「??」みたいな状況になってる気がします。SNSあるやん?って言われるんじゃないかと(笑)。

原典を確認したことがないので、もともとあったのかどうかも定かでないんですが。でも、もし実際ちゃんと権威性のある本に書かれていることであれば、これが今後も説得力をもつか、あやしいところもありますよね。

送り手とか受け手とか言わずに、表現の自由は情報の流通全体を保障しようとする権利なのだ、と端的に指摘するだけのことになるのかなと。

まあ、肝心の対行政(行政情報)では、別に状況はそんなに変わらないですので、相変わらずまずは受け手の地位を保障しないと、なんですけど。

とはいえ、憲法の論証が変わりうるくらい?世の中の根本的な部分を変えていっている。端的にいって、激しく、劇的に、変わっている。

論証の表現を借りていうと、情報の受け手の地位に固定化されていた一般国民が、解放されて、送り手の地位との間を自由に行き来できるようになった、ということだと思います(ちょっとドラマチックすぎ?)。


結び

憲法って「法」なので、もちろんルールなんですけど、抽象度が高くて、ある意味ではルールというより「価値観の塊」みたいなところがあるので、そんなに短いスパンで考え方が変わることって、あんまりないと思うんです(←個人的意見です)。

でも、そういうのが変わる(かも)っていうのは、グーテンベルクの活版印刷並みに、社会のあり方を根本から変える(あるいはもう変わっている)出来事なのかも?

と、ふと昔の憲法論証を思い出しながら、そんなことを考えていました。


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