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「飲みニケーション」はイヤだけど仕事終わりの一杯は美味しいのに|職場の心理的安全性と「飲み」

「飲みニケーション」という言葉があるけれど、いくつかの業界に転職すると、「飲み」についての温度感もさまざまだなあ、と思う。


個人的には、「飲みニケーション」はイヤだけど、あまりアッサリし過ぎているのもちょっともったいないのになあ…と思っている。保守的な業界ほど前者の、新しい業界ほど後者の雰囲気が濃いように感じる。
(ステレオタイプかもしれないけどすいません汗。自分の経験限り。)


最初の職場(法律事務所)の同僚が、人間的にすごくよく出来た器量の大きいひとで、「◯◯さん、ちょい飲みしにいかへん??」とよく誘ってくれ(悪魔の誘惑、ってやつw)、「ぐむむ、やることあるけど…行くかあ!」という感じで、よく飲みに行っていた。


結局2人ともまた事務所に戻って仕事をすることも多かったけど(笑)。でもそこで仕事の話とか遊びの話とかバーっとして、これめっちゃ美味いやん!(しかも安い!)とかで楽しい気分になると、不思議とまた仕事をする元気も出てくるのだ。まあ若かったから体力があっただけかもしれない。


そのときの酒の味はやっぱり美味しい。
普段と何が違うのかはよくわからない。でも仕事のあとに気の合う同僚(同期でも、先輩、後輩、上司でも)とちょい飲みするときの酒の味やツマミの味は、そういうときにしか感じられない味がすると思う。


飲みニケーション、という言葉はキモくて嫌いだけど。どっかの世代で、「自分の誘いを断るのかあ?」とか「目下は目上の酌をすべし」みたいな意味不明のマウント踏み絵みたいな文化が生まれたタイミングがあって、そのあたりから何かが歪み始めたんじゃないかなあ、と個人的には思っている(ほんまかどうか知らんけど)。


最近本を読んでると、職場の「心理的安全性」という言葉をチラホラと目にするけど、やっぱりそういうのはあるように思う。そういうものがあると、人は安心して本来もっているパフォーマンスを発揮できる、という話。


これを「飲み」で解決するなんていう話は、もちろん安直でしかない。なにかひとつの要素でそういう支えをつくれるわけはない。仕事の量とか質、多少調子が悪いときがあってもカバーし合える関係、情報や技術の共有、特定の人に偏り過ぎない業務配分、繁忙期と平常期のメリハリ、攻撃性のある人が多過ぎないこと、その他諸々いろんな要素があって、そういうものが醸成されるのだと思う。


ただ、そういうもののなかに、「同僚の人となりが何となくわかっていること」というのがあって、「飲み」は自然とそれを馴染ませてくれるものではないか、という気はする。


職場の人は所詮他人だけれど、「家族」「友人」「恋人」といったカテゴリとはまた別の、「同僚」という独自カテゴリの人間関係。なのに、「職場は労働力を提供したら終了なんで。んじゃ」という感じまでサバサバしすぎると(もちろんそれでもいいのだけど)、個人的にはもったいないように思う。


マネジメントになってからは万が一何か言われたら嫌だと思って(小心者ですいません汗)、自分から誘うことはなくなったけれど、誘われたら普通に行く。「仕事の後の一杯」は、全然嫌いじゃない。


何言っているかよくわからなくなってきたのでこのへんでやめときますけど笑、強制も同調圧力もなしで、気が向いたときに一緒に飲みにいける関係というのはいいものだと思うし、仕事の後の乾杯はまた別の味がする、という個人の味覚の話でした。
(公式飲み以外まじで100%行かないタイプの人や職場への、多少の誘い水です。笑)


ま、もちろん価値観は人それぞれ、ですけどね。


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