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比較する世界を知らない子どもは、すべてを受け入れる

幼稚園にわたしは半年しか行ってない。兄も弟は幼稚園に行ってない。
毎朝、みんな幼稚園バスに乗ってどこかに行くけど、自分も幼稚園に行きたいとか思わなかった。どっか行ってるわーって家の中から見てた。

実家の方針で、同じ宗教の人としか関わらないようにしていたので違うものを信じている人との接点がほとんどなかった。
だから、うちがヘンってことはぜんぜん気が付かなかった。

日本の行事や習慣が、ぜんぶ禁止だったのであれ?ワケわからない。学校の校歌も君が代も歌ってはいけない。
誕生日ってケーキ食べるの?クリスマスって何?
なんで、ごはんの前にお祈りしないの?そんな汚い言葉使っていいの?色んなことが不思議だった。

でも、まぁいっかって思った。
まだ、何で我が家は不幸なんだ!とは思わなかった。そんなもんだと受入れていた。

わたしは病気で9歳〜3年間、ベッドの上で過ごした。歩いてもダメ、座ってもダメ、寝返りも許可なくできない。
厳しい食事制限で好きなものは食べれない。1日摂取していい塩分は4gと決まっていた。ほぼ味のしない食事。
入院したすぐは、体がとてもしんどかったので何もできなかった。やっと息をして、体の感覚も分からなくて意識も朦朧としていた。
はじめは、体を動かすことにエネルギーを使えなかったので、しゃべることもしんどい。
起き上がって座ろうという気にもならなかった。
エネルギー消費を極力やめて、細い糸でかろうじて生きていたと思う。
だから、そういう絶対安静という制限がかけられていることすら知らなかった。

それを今思えば大変だなと思うけど
当時は、まだ9年しか人間をしていないので比較する世界がないから、それが辛いという感覚はあまりなかった。
そんなもんなんだって受入れてた。

自分の家が貧乏なのも、比較する対象がなかった。だから、不足感を感じなかった。
あるもので、ふつうに生きれた。

大人になって色んな人の人生と比較することによりあれ?わたしの人生ってヒドくない?って思うようになったけどさ

比較する世界をまだ知らない子どもはすべてを素直に受け入れる。

それって幸せかも。

なんか、わたし大人になってもまだその感覚が残っていて眼の前で起こる出来事に、そのまま受入れてしまうことが多い。

本当の比較の使い方って、優劣をつけるためじゃなくて
ただ、自分と自分以外の人との違いを知るためなんだと思う。

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