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老子道徳経と中医学的身体観㉜

副題 聖徳

鳳凰堂流解釈
身体は有限で、それぞれに名前があるが、魂はその繋がるところが無限であり、無極である。

物事を行う際には名前や型が必要だが、最終的にはそれを集約する形を取り外しても通じるものである必要がある。

中医学的身体観としては、太極は無極であり、循環する。見えない太極の中に無極もあり、それを手放した時に本当の無極があると考えています。

これは、見えるものも見えないものもそれぞれ交流しているからこそ、形、型だけではなく、その奥にあるものを穿って通す事で、ただそこにいるだけで天地自然と一体化する事だと。


鳳凰堂流意訳
道は常に名もない素朴なものである。

名もない素朴なものは小さいが、何かに支配されることはない。

大きいものでも素朴さを守れば、あらゆるものが支配される事も支配する事もない。

天地が交流することで、甘露が降りてくるが、これは人が降らせているわけではなく、自然に降ってきているものである。

支配し始めると名前を付ける必要ができ、名前をつけると観察、管理が始まる。

道は全てのものが行き着くところであり、全ての水、大河が海に流れるのと同じ事である。

直訳
道常に無名の撲なり。

小なりといえども、天下あえて臣とせず。侯王もしよくこれを守れば、万物まさにおのずから賓(ひん)せんとす。

天地は相合して、もって甘露を降し、民はこれに令することなくしておのずから均(ひと)し。始めて制して名あり。

名もまたすでにあれば、それまたまさに止(いた)るところを知らんとす。

止(いた)るところを知るは殆(とど)まらざるゆえんなり。

譬えば道の天下に在るは、なお川谷(せんこく)の江海(こうかい)に与(くみ)するがごとし。

原文
道常無名樸。雖小、天下不敢臣。侯王若能守之、萬物將自賓。天地相合、以降甘露、民莫之令而自均。始制有名。名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆。譬道之在天下、猶川谷之與江海。

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