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京都産業大学のクラスター感染から思う、不思議で歪で割に合わない大学の立場と責任。

世間全般から見れば、大学の新型コロナ関連で一番話題になっているのは京都産業大学のクラスター感染ではないでしょうか。学生の思慮の欠けた行動もあって感染が拡大し、五次感染まで広がっているという報道もありました。それとともに、大学に抗議や意見のメール、電話が数百件も寄せられ、なかには脅迫もあったとニュースで取り上げられていました。

メールや電話が数百件……。ピリピリとした社会状況もあって、このいきすぎた(というか歪んだ)正義感につながったのだと思います。この状況に悲しい気持ちになるとともに、少し不思議なことだとも思いました。

というのも、小・中・高の子供たちが何か悪いことをしたとき、学校側に明らかな過失がないのなら、責められるのは本人、そして保護者です。社会に出たあとであれば、本人のみで、勤め先の名前が出ることは、一流企業や公務員などの特定の職業を除くと、あまりないように思います。勤め先が出る場合も、勤め先をバッシングするというよりは、こんなところに務めている人が……、といったギャップを強調し、話題性を生み出す舞台装置として使われることがほとんどのように感じます。

でも、今回の京都産業大学の件に限らずですが、大学って、学生が何かすると、すごくフィーチャーされるんですね。そして、多くの場合、学生のせいで大学のイメージが落ちてかわいそうではなく、なんて教育をしているんだ! レベルの低い大学だ!といった、ふがいない保護者を責め立てる論調で非難されます。これって、すごく不思議です。

子どもの責任は保護者の責任というのはわかります。何かしたら自己責任というのも、まぁわかります。でも、極論をいうと、学費をもらって教育サービスを提供しているだけの大学が、なぜここまで責められる必要があるのでしょうか。大学生が道徳観や倫理観の欠如で社会に迷惑をかけたのなら、責められるのは本人で、強いて次を挙げるとしたら、人格形成に深く影響を与えた保護者です。無理くり教育とひもづけるとしても、幼少期を過ごした幼稚園や小学校でしょう。高等教育を教授する大学のあずかり知らない問題です。

さらに今回の一次感染者は、海外旅行をした卒業間近の大学4年生でした。大学の教育や研究活動が、直接的にも、間接的にも関わったわけではありません。大学側は感染予防の呼びかけを再三おこなっていたともいいます。こういう事実は、少し調べたら出てくるし、一度、頭に浮かべば抗議する気持ちも薄れそうなものです。でも、そうはならなかった人が数百人もいた…。

大学は、本人や保護者と同じように責任を負うべき存在なのだと、当然のように思っている人が世の中にはたくさんいるようです。大人は本人が、子どもは保護者が、大人でも子どもでもない学生は大学が……。責任の所在があいまいな年齢の人たちを受け入れているがため、ありえない責任を押しつけられてしまっています。恐ろしいリスクだし、正直、受け取っている学費の額だけでは割に合いません。首都圏の大学が相次いでキャンパスを閉鎖しているのは、感染拡大の防止であるとともに、自己防衛施策でもあるのではないでしょうか。

大学は教育機関であり、学生を守ることに責任と使命感を持っています。それは、どんな学生であっても、です。だから、大学は口が裂けても、こういう割に合わないことをやっている、と声を大にして言わないでしょう。だからこそ大学好きな第三者として、大学の置かれている歪な立場を、リスクばかり背負い込んでいる現状を、ぜひ知って欲しいと思い、こんなことを書いてみました。

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