46や48について、ずっと思ってきた

思えば最初から、あの子達を正視できなかった。

私は特に気骨や教養のあるフェミニストではないけど、たぶん女として辛かったのだ。このような話を初めて言語化したのは2017年、大学院の日本人仲間たちとご飯食べてるときだったと思う。そのときもあまり理解してもらえなかった記憶があるけれど、今も同じだろうか?

46とか48とか、ファミレスのメニューかカタログみたい。キャバクラの指名に使うアルバムや、もっと古くは吉原の女郎屋の、木の格子の向こうの顔見世みたい。比べられ品定めされるためのシステム。人間性より定員制。
あとね、最もタチが悪いな、卑怯だなと私が思うのは、あの子たちは、決して嫌々ではなくむしろ嬉々として、「自ら望んで」「選抜されて」ショーウィンドウに並んでいる、というあの演出。(いいじゃん本人がそうしたいんだから)、って前提なので、女の子が、消費されるモノに、値段をつけうる商品になることを否定する視点は入り込みようがない。欲望の対象としての自分の価値を上げようと、何やら泣いたり抱き合ったり青春ぽさを漂わせながら「がんばる」「努力する」姿すら、萌え要素としてヨシヨシと褒められ、視聴する女性すら巧妙に巻き込んで消費されること。

こういうこと全てが、男性の勝手な欲望を罪悪感なく堂々と表出することに、都合が良すぎるシステムだと思った。

「あの子たちは好きで着飾ってメイクして笑って楽しくやってるのだ。俺が彼女を他の子よりもあの子は魅力的だと「推し」たら、あの子だって喜ぶのだ。性的な目で見たとして、それが何?魅力的な異性なら当然だろう?」と。

そういう、現実の会社員が新入女子社員に当て嵌めたら完全なるセクハラである最悪な発想を、擁護し強化し醸成するのに、あのアイドルたちは全く関係ないって言えただろうか?
それが過去の話じゃなくて、2024年、いまでも根強く存在してるから言っているのだ。

好きな作家やエッセイストでも、誰か個人ではなく「アイドル」(というシステム、集団)が好き、と言っているのを読むと少しシュンとしてしまう。
そうだね、きっととんでもなく素敵なところ、文字通りに尊いところ、たくさんあるのだろうが、私はなにか悲しいことばかり思ってしまうな。

なんてことを、最近川上未映子さんのエッセイを読んで改めて感じました。

https://magazineworld.jp/books/paper/3243/

川上さんの「深く、しっかり息をして」の中で、
川上さんの周囲にも、そうした「推し」に大きな大きな意味を見出して、生きる気力の源泉になってるって人もたくさんいる。でも川上さん自身は、やはり会ったこともないアイドルとか芸能人に「実際お会いしても良い感じなんだろうな」くらいは思ってもそこまで夢中にはなれない方で、という話をされていて、ああ私も同じだなあと。

2017年のあのとき、友達も「アイドル見て、そんなこと思うんだ!?」と不思議そうにしてたし、少数派かもしれないが。悲しい方向に受け止めてしまうのは、そういう、推しの圧倒的キラキラ感、絶大な善、みたいな概念の説得力が私の中には自明のものとしては存在しないから、なのかな。

川上さんのエッセイの中で心に残った部分は他にもたくさんあって、また読書日記としてまとめられたらと思う。



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