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#81 心の倉から出る言葉

私はライターという仕事を通じて、日々多くの言葉を発している。
その言葉は、人を生かすものか、殺すものか。
人を笑顔にするものか、あるいは人の心をえぐるものか。
今日も自分に問いながら、パソコンに向き合っている。

最近、話題のAI、Claudeを使ってみた。
その結果、無課金だったにもかかわらず、その精度の高さに驚かされることになった。

今や、こうしたAIを使えば、
「音源からテキストを生成→目的に合わせてテキストを成文」
といった工程が一気に終わってしまう。
あの何時間もかけて文字起こしをしていた苦労は、一体なんだったんだと思うほどである。

ただ、性能が高いと言われているAIであっても、油断はできない。
「〇〇をまとめて」とお願いすると、さらっと大切な言葉を振るい落としてしまうことがあるからだ。

例えばそれは、物事の大局には関係のない、なにげないエピソードかもしれない。でも、それは、対象となる人物の人柄や個性を示す重要なキーワードだったりするのだ。音源を聞き直してみると、そういったワードが何気に消されていて、「ちょっと待った!」と思うこともある。私にとってはとても大切に思えるものだったから。

こうして、音源から簡単に言葉を取り出せるようになった今、ライターが問われるべきことは、「どんな言葉を選びだし、また選び出さないか」ではないだろうか。

膨大な言葉の中から、使うべき言葉を拾い上げたり、または振るい落としたりする。さらに、拾い上げた言葉たちを用いて、どう言葉をつないで想いを伝えるか。今まで以上に、こうした判断が問われてくるだろう。

ライターとして、一人の人間として、どのような言葉を使い、また使わないか。それを左右するのが「心の倉」だと説く書がある。

「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」

日本聖書協会『聖書 新共同訳』 マタイによる福音書 12章35節

「倉」は人間の心を、そこに入っている「もの」は言葉をそれぞれ指している。善い人は、良い心から良い言葉を発するのに対し、悪い人は、悪い心から悪い言葉しか発することができない。こう言っているのである。

では、私の心の倉にはどんな言葉が入っているのだろうか。「良い心」から「良い言葉」を発することができているのか。それとも「悪い心」から出てくる「悪い言葉」をまき散らしてしまってはいないだろうか。

私たちライターは「言葉」を生業としている。いくら取り繕おうとしても、
「人の口からは、心にあふれていることが出て(同34節)」きてしまう。今日一日、わたしが紡ぐ言葉が少しでも良い言葉でありますように。



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