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#10 私が発信する理由(わけ)は

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私は現在ツイッターにて #ほとりのライティング講座  として「昔話で学ぶグレーゾーン表記」というつぶやきを日々発信している。誰でも知っている昔話のイラストの隣に、ライティングに役立つ豆情報をのせるというパターンである。


お手本にさせていただいたのは、かの有名な「試験に出ない英単語」。

しかし、あそこまで華麗にボケられないし、あんな味のあるイラストだって描けない。だからいらすとやさんのイラストに、全面的に乗っからせていただいているわけである。これを見てくださった方が、あわよくば「くすっ」と笑ってくださればいいなあという思いから。

そして私がこの「くすっ」にこだわる理由は、子供の頃に聞いた母の一つの言葉にある。

1.母の一世一代の望み


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「お母さんは、死ぬときに、最後に何か面白いことを言いたいの」

自称・神戸出身、しかし実態は但馬の山奥にて生まれ育った母。
野球といえば「阪神タイガース」、ラップは「クレラップ」の生粋の関西人。

今際の際にもギャグを放ちたいとは、やはり、関西人の血には熱いお笑いスピリットが流れているのか?

だけど、令和時代の今を生きる小学生の孫が、
「おばあちゃん、先生が『しまった、しまった島倉千代子』って言うんだけど、それって誰?」
とたずねれば、
「それは困った、困った、コマドリ姉妹だねえ」
と返すこのセンス(意味が分からないナウなヤングたちは各自ググって調べてね)。

娘のカンでは、母の「一世一代のギャグ」とやらは、その超深刻なシチュエーションと相まって、壮大にスベる予感しかしない。

2.人に与え続ける人生


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母は、なんでそこまでして面白いことを言いたいのか。それもよりによって末後の場で。

理由を聞いてみると、
「私が死んだあと、私のことを思い出してくれた人に、悲しい思いをしてほしくないの」

「自分は十分幸せに生きてきて、そして天国にいくのだから、みんなに必要以上に悲しんでもらう必要はないわ」

「自分のことを思い出してもらえたとしたら、そのときに言ったギャグもいっしょに思い出して、ちょっとクスっと笑ってくれたらいいなあ」

そうだ。母はこういう人だった。
いつも、いつも、自分のことより、他人のことばかり考えている。
自分に与えることができるものを、ずっとまわりの人たちに与え続けて生きてきた。
自分が死ぬっていう一大事(?)のときに、もっと生きていたいと望むよりも、残されるまわりの人のことを気遣うなんて。

雪の降る朝、家の前を通りかかったホームレスの人がサンダル履きだったからといって、自宅の靴箱から父の運動靴を取り出し、見も知らぬ人にあげてしまう。
ちなみに、古靴だと思っていたのは、父が前日に買ったばかりの新品だったらしいんだが。
「お父さんは『まあいいよ』と言ってくれたよ」
とのことだけど。
まあ、そんな人だ。

3.自分にしか発信できない「何か」


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そしてあのときの母の年齢をとっくに超えた今、実は私自身もその「くすっ」にこだわりがあるんだなあということが分かってきた。

ライター垢でTwitterを開始して3か月。
「成功へのロードマップ」
「〇か月で月収〇万円」
「これを続ければ人生が変わる」

ネットには無数の有益情報や、成功体験があふれている。
「webライター」を名乗りながらも、SEOの概念すらあやふやだった「自称ライター」は、日々、そんな情報にとても学ばせていただいている。無償でそのような貴重な情報を提供してくださる皆様には、本当に感謝しかない。

ただ、実はそんな情報が持つ「有益さ」にちょっと疲れてしまうことがある。ごちそうばかりを食べ続けて、消化しきれずに胃もたれしてしまっているとでもいうのだろうか。

もちろんそれは、提供される側にあるのではなくて、100%、受け止めるこちら側の問題なのだが。

そして、そんな脆弱メンタルは、#フリ校 先生の「SNS上で自分だけのコンテンツを提供しよう」という課題に対しても遺憾なく発揮されてしまう。

自分にしか発信できない「何か」ってなんだ?
実は、オンラインメンターサービス「MENTA」様からも、「メンターにならないか」とお声をかけていただいたこともある。

しかし、
「自分が人様に教えられることって何?」
と問いかけると、もう固まってしまうしかない。

悩み


ライターとしてスタートができたのは、印刷会社で8年務めたという経歴があったからだけど、そもそも印刷会社に就職できたのは、多分、その会社が父親の取引先だったからだし。

主婦業&母業とライター業を両方続けてこられたのは、うーん。「両立」ではなくて、私のやるべきことを代わりにやってくれる人がいたからだ。

ひとえに、朝は子供と同じ時刻(6:00)にしか起きられない妻に代わって、毎日朝ごはんを用意し、なんなら在宅勤務のときには仕事の休み時間に晩ご飯のカレー(2日分)もつくっちゃう。そんな家事万端な夫がいたから。

まあ、アレですよね。
「毎月の食費を3万円以内に納めました」
とドヤ顔しておきながら、内実は
「米と野菜は実家からタダでもらっています」
という節約術のようなもの。要は、他の人にとってはあまり参考にならない情報ということで。

逆に言えば、22年間も文章を書き続けていながら、いまだにパート並みの収入しか稼げていない自分についての情報なんて、誰の、何の役にたつというのか。
むしろ、メンターが必要なのは私のほうではないか。

しかし、#フリ校 様は、SNSで毎日何らかの情報発信をしなさいとおっしゃっている。
うーん。

ということで試行錯誤の末始まった「#ほとりのライティング講座」。
フォローしていただいたところで、ライターとしての月収は上がらないだろうし、勝ち組人生へのロードマップにもならない。ただ、パソコンのキーボードを打ちながら、あるいはふとした休憩時間に、私のツイートを目にして、くすっと笑っていただければ、幸いかなと。

まとめ~1本の「ワラ」として

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西洋のことわざにこんなものがある。

Straw that broke the camel's back.(ラクダの背骨を折るのは最後のワラ1本)

生きていく上で日々重荷を追い、疲れきっているような人の心に最終の一撃を与えるのは、第三者からしたら本当にたわいもないような、1本のワラのようなささいなこと。

生きていく上で何も苦しみがない人なんていないし、そんな紙一重、ワラ1本のギリギリのところで必死に踏ん張って生きている人って、世の中には案外多いと思う。

他人の何気ない言動や、ネット上に転がっている誹謗中傷とかで本当に心くじかれ、立ちあがれなくなってしまう人もきっといる。それが「とどめの一撃」となることで。

だったら、逆にほんのちょっとした心が軽くなること、くすっと笑えるようなことがあったなら。そのときに背負っていた重荷をほんの一瞬でも忘れられるような「何か」があれば、それだけで人は生きていけるかもしれないって。

人生を終える前にアレを食べたいとか、あの漫画の続きを知りたいとか。
そんな一見どうでもいいことかもしれない、不要不急の極みかもしれないことだけど、それは人が生きていく上でたしかに必要なんだと思う。

何の役に立たないかもしれないような1本のワラ。そんな割とどうでもいいかもしれないことを、私はTwitterでこれからもつぶやいていきます。

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