【エピローグ】ある日
夕暮れ時、酒場にとっては稼ぎ時の時間だが、酒場アンディフィートに客の姿はなかった。いつものことだけれども、と店長は大きなため息をついた。
「閑古鳥ってなんて鳴くんだろうね、マスター」
カウンターに引っかかるようにだらしなく座った店員が話しかけてくる。顔色の悪い店員で、制服に包まれた右腕は白く曖昧に蠢いている。
「知らねえよ。というより仕事をしろ、仕事を」
「お客さんいないんすから、しょうがないです」
「掃除するとか」
「もうずっとやってます」
文句を言いながらも店員はやる気なさそうに立ち上がった。流しに右腕をかざして
「ああ、くそ」
悪態をつき、カウンターから身を乗り出して流しから雑巾を取った。
「やっぱ伸びないと不便?」
ぼんやりと見ていた店長が尋ねる。
「前できてたのができなくなったのは、ちょっと」
「ふうん」
「時々忘れちゃうすね」
「そっか、まあ、慣れろ」
店長がそっけなく返すと、店員も「はいはい」と適当に相槌をうち、本日もう何度目かのテーブル拭きに向かった。
店内に置かれたテーブルの数は少ない。先日ささやかな事故があり大半のテーブルや椅子が粉みじんになってしまったのだ。いま置かれているのはその事故の生き残りのかけらをなんとか繋ぎ合わせたものだ。
がたがたと不揃いな机を拭きながら店員がふと思い出したように声を発した。
「あ、そうだ。店長」
「なに」
「ラジオつけてくださいよ。ラジオ。今やってんじゃないすか、ハンターズの試合」
「ああ」
店長がカウンターの上に据え付けられたラジオをいじる。しばらくつまみを捻じっているとやがて音が像を結び始めた。
『……八回裏、ハンターズの攻撃、ツーアウト、ランナーは二塁、おっとここで朝比奈監督が出てきます。代打でしょうか?』
「お、女神さんかな」
『バッター馬路に代わりまして、ドブヶ丘の女神のようです。さあ、トレードマークの酒瓶から気合入れに一杯呷りまして、打席に向かいます……おや? どうしたのでしょう、足元がおぼつかないようですが?』
ラジオ越しにアナウンサーが疑問に言葉を途切れさせる。店長と店員は顔を見合わせる。ドブヶ丘の女神はアンデフィートの数少ない常連だ。神の名を冠するだけあって、どれほど酒を飲んでも酔うということはない。ましてや酒を飲んで足に来る姿など目撃されたこともない。
「どうしたんすかね」
「さあ……あ」
店長はふと、昨日女神が自作の酒を造ったと自慢していたことを思い出した。どこで聞きつけてきたのか葡萄になにやら手を加えるなどと恐ろしい手順を語っていた気がする。
「ねえ、後藤」
「なんすか、店長」
「腕の調子どうよ」
「ん?」
問われて後藤と呼ばれた店員は眉をひそめながら右手を開いたり閉じたりする。
「大丈夫か?」
「いや、なんか……」
と、見る間に店員の右腕が形を失い、消え失せてしまった。
「なんだ、これ!」
店長はそれを見て大きくため息をついた。
『ドブヶ丘の女神、打席に向かう途中で倒れ込みました……立てません……主審が駆け寄ってカウントを取ります。ワン……ツゥー……スリー……』
「酒が神性を強化するものなら、汚染された酒モドキは冒涜するもの。そんなものを呑んだら女神さまの神性が失われてもおかしくないか」
「毒を盛られたってことですか?」
「いや、自分で酒モドキ作ってた」
「そんな馬鹿っている!?」
冷静に分析する店長に店員は驚きの声を返す。
「前も、どぶろく作るとか言ってお腹壊してたしな」
眉間に皺を寄せて店員は眼を細める。
「信じられないくらい馬鹿な話を聞いたと思ってる?」
「よくわかるすね」
「私もそう思ってるから」
「なるほど」
納得したように、店員は椅子に腰を下ろした。左手に持った雑巾でおざなりにテーブルを拭いた。
『おっと、女神立てません。ここでダウンだ! 再び朝比奈監督が出てきます。バッター更に交代です。代打は……隕鉄選手です』
「お」
カランカラン
店員が声をあげたちょうどその時、店の扉が開いた。ドアに取り付けられたベルが鳴る。ラジオのボリュームを下げながら、店長が声をかける。
「いらっしゃい」
扉が開き入ってきた男はうつろな目をしている。薄汚れた外套のポケットに両手を突っ込んでいる。
「ご注文は?」
「酒を……酒をよこせ」
かすれた声に、店員が目を顔を上げる。そして気が付く、その男は正気ではない。
男は外套から右手を抜く。その手には大きなハマグリ刃のナイフが握られている。
男はそのうつろな目からは想像できない敏捷さで、店長に向けて駆け出した。
「お前!」
店員が立ち上がり、とっさに割って入る。失われた右手を突き出そうとして
「ちっ!」
舌打ち、とっさに肩からぶつかる。同時に足に痛烈な一撃を入れる。男はバランスを崩して近くにあった机に突っ込んだ。
「後藤!」
「店長は下がってて」
「酒を! よこせ!」
男は立ち上がり、再び突進する。店員は椅子を持ち上げて距離を取ろうとするが、男は痛みを感じないかのようにナイフを振り上げる。
「私は大丈夫だから」
「今だと死ぬかもしれないだろ!」
無尽蔵のスタミナを持つ男の猛攻に徐々に店員の抵抗は押されはじめる。
その時、再びカランカランと店のドアが鳴った。
「やっほー、店長やってる?」
能天気な声とともに姿を現したのは、きらめきを身にまとった少女だった。
「お宮ちゃん!」
店長が思わず声を上げる。少女の名は御馬ヶ時お宮。少し前までこのドブヶ丘の町で大流行したアイドルだ。流行がひと段落しても根強いファンから支持されている。アンデフィートの数少ない常連の一人で、唯一ちゃんと飲み代を払う客だ。
「なんだ? おまえは?」
男が振り返る。その顔を見てお宮が叫んだ。
「あ、タナカさん!」
その声に、男は動きを止める。
「最近、来てくれないから心配してたんだよー、どうしてたの?」
「知り合いか?」
「うん、よくライブ来てくれてた人」
店長の問いに答えながら、男に近づいていく。男は眼を見開いて立ち尽くしている
「おれは……おれは……」
男は苦しそうに、つぶやくと頭を抱える。
「あ、もしかしてまたお酒飲んじゃったの? やめるって言ってたじゃん」
男は恥じるように顔を伏せる。それを見てお宮は慌てたように言葉を続ける。
「あ、ごめんごめん、責めてるわけじゃないんだよ。私も最近あんまり歌えてなかったし。あ、そうだ、店長」
「なんだい」
「ちょっと歌ってもいいかな」
「構わないけど」
突然の申し出に店長は面食らって答える。その答えを聞いてお宮は頷くと歌い始めた。
息を大きく吸い込み、目をつむり、口を開く。
途端に店内に音があふれた。
それは祈りの声のような、叫び声のような、高速でどこかへ登っていくような声だった。
「これは……」
店長が驚きの声を上げる。以前聞いたものとは全く違う。神の加護のない歌声。
「いや、むしろこの声があるからやつが目をつけたのかな」
店長が独り言ちる。
カランと音がした。
目をやると男の手からナイフが落ちていた。見開かれた目から滂沱の涙が流れ落ちている。
歌が終わる。
「ありがとうございました」
お宮が一礼する。
店長と店員は無意識のうちに拍手をしていた。男も釣られたように手を叩きはじめる。三人の拍手が店内に響き渡る。
「タナカさん、もう大丈夫?」
「あ、ああ」
男は憑き物が落ちたように晴れやかな顔をしている。
「お酒もほどほどにね」
「うちの店でそんなことを言われちまうと、商売あがったりなんだけどね」
店長が苦笑いしながら言うと、お宮はごめんごめんと笑いながら謝った。
「まあ、ジンジャーエールくらいなら奢ってあげるよ」
「ありがとう」
「タナカさんも、ほら」
「ああ、どうも」
店長に促され男とお宮はカウンターに座る。店長は二人の前にグラスを置き、瓶からジンジャーエールを注いだ。黄金色の泡立つ液体がグラスを満たす。
「あ、わたしにもくださいよ」
店員が口をとがらせてカウンターに駆け寄ってくるのを見て、店長は二つグラスを取り出した。店長はそのグラスにもジンジャーエールを注ぎ、店員に渡す。
誰からともなくグラスを合わせる。
軽やかな音が無人の店内に響いた。
【1st season おしまい】
書き終わった。これからどうするのだろう。
やりたいことはたくさんある。
書きはじめるきっかけになったドブヶ丘生成した諸兄には感謝しかないのじゃ。ドブヶ丘ネタは今後もちょいちょい擦っていこう。
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