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発狂頭巾二世 ep.32 レガシー・オブ・ザ・マッドネス

 発光灯が青白く照らし出す書物棚の壁の向こうに、その男はいた。
「八」
 貝之介は一歩踏み出して、男の名を呼んだ。
 呼びかけに、八はゆっくりと振り返った。
「遅かったでやすね」
 ぴちゃり、と八の自立繊維草履が水たまりを踏んだ。水たまりを構成する紫色が自立繊維の力場から逃れるように空白を作った。紫の液体は貸本屋、馬鈴の亡骸から流れ出た人工血液だった。胸につきたてられた非振動カタナの傷口から紫色の川はなおも流れ出ている。
 馬鈴の半機械の巨体は八の背後で一つの書物棚を守るように息絶えていた。その書物棚こそがこの貸本屋の真の存在理由だった。ゼンマイ仕掛けの心臓をカタナで貫かれるその時まで馬鈴は書物棚を守っていたようだ。普段の言動とは裏腹に馬鈴は最期まで忠義者だったらしい。
 だが今、書物棚は無残にも開け放たれていた。書物棚の前に立っている男は八、そしてその右手に握られた書物こそが、書物棚に隠されていた書物だった。
 書物の真黒の表紙には『活劇 発狂頭巾』と鮮やかな金文字が踊っていた。
 場の惨状を見て、貝之助は静かに問いかけた。
「読んだのか」
「どうでやしょうね」
 八は微笑んだまま答えた。いつもの穏やかな笑みだった。なにごともなかったかのような。なにも異常はないかのような。
「貝之介さん、なにをそんなに怖い顔をしているんでやすか?」
「八、その本はもう誰にも読まれるべきではない。元に戻せ」
 貝之介の言葉に、八は首を傾げた。心底不思議そうな表情だった。貝之助が発した言葉の意味がまるで理解できないというような。
「知らないんでやすか? こいつを読めば、発狂頭巾になれるんでやすよ」
「そんなことは知っている。だから読むな、と言っているのだ」
 八の右手に握られている書、『活劇 発狂頭巾』。
 それは読んだ者を発狂させる書物だ。鮮烈に描かれた歴代の発狂頭巾の活躍は電脳/非電脳を問わず読者の脳に焼きつき、自己増殖する狂気の種子としてその思考に植え付けられる。発狂頭巾を拝命した者たちが授かる発狂の儀とは、そのおぞましき書物を通読する儀式に他ならない。
 貝之助はさりげなく身構える。八はもうあの書を読んでしまったのだろうか。馬鈴はその犠牲となったのだろうか。そうであるならば……。貝之介は己に問いかける。
 そうであるならば、自分はどうするべきなのだろう。
 不意に八が大仰に頭を振り回して見栄を切った。
「狂っておるのは、お主か? わしか?」
 その動きは幻影画が脳裏に映し出す発狂頭巾の見事な再現だった。どんな熱狂的な発狂頭巾の信奉者も、今の八の見栄を見れば、自分が二流の模倣者だと認めただろう。
「ね、そっくりでやしょう?」
 無邪気な八の笑顔。けれども静かに、貝之介は首を振った。
「違う」
 貝之介は一歩、足を踏み出す。まだ間合いは遠い。八は動かない。
「発狂頭巾は、そんなものではない」
 そうでないことを、発狂頭巾が「そんなものではない」ことを貝之介は知っていた。
 父、吉貝の書斎に残されていた手記。それは発狂頭巾の内面を記したものだった。吉貝が先代の発狂頭巾だった。だが、そこに書かれていたのは、その手記の中で懊悩していたのは、幻影画の中で狂気のままに悪を斬る正義の狂人ではなかった。
「幻影画の中の発狂頭巾は、大衆のための偶像にすぎない。父は、発狂頭巾は、けっしてあのようなきれいなものではなかった」
 『活劇 発狂頭巾』の書が正気を塗り潰していくなか、狂気と狂気の僅かな隙間で、自己の消失に怯えながら、吉貝は狂気の進行をつぶさに手記に残していた。
「発狂頭巾はただの狂人に過ぎない。その行いが偶然、正義を成すように見えていただけだ」
 貝之介はこうべを振った。肺を引き絞るように言葉を紡ぐ。
「父は……発狂頭巾は狂っていた」
 吐き出した言葉は、貝之介の胸の内に鋭利な痛みを残した。願望のように拒み続けてきたその事実を、父が遺した手記は明確に証明していた。
 だが……。貝之介は痛みを呑み込み、八を見据える。
 手記に書き残されていたのは恐怖と絶望だけではなかった。
 手記の冒頭に確かな筆跡で残されていたのは、決意だった。サイバー江戸幕府の末期、醜く肥大化した体制が断末魔の悲鳴を上げる大惨禍のなか、民草の平和な暮らしは正気のままで守れるものではなかった。
 貝之介の脳裏に、父の優し気な笑顔が蘇る。遠い日の記憶。あの時父はすでに狂気にむしばまれていたのだろうか。それとも、まだ正気を保っていたのだろうか。
 八は何も答えない。穏やかな笑みを浮かべたまま、貝之介を見つめている。
「父は、狂気を選び、受け入れたのだ。理に寄らず、正義を成す存在、発狂頭巾に成ったのだ、その依り代としてその身を捧げたのだ。だが――」
 貝之介はゆっくりと首を振る。
「もう、狂気は不要だ。大惨禍は過ぎ去った。もはや発狂頭巾もその信奉者も、混乱をもたらすだけの存在だ。そのようなものは、これからの時代には……不要なのだ」
 大惨禍は終わった。正狂を問わぬ迅速な裁きが求められる混乱はもはや存在しない。ましてや今、巷にあふれる発狂頭巾の追随者たちは、ただ乱雑な思考で悪を断罪するだけの存在だ。彼らの行いには法に基づいた手続きも、過程を省略して真理に至る発狂知性も、どちらもない。彼らはただの無秩序な暴力に過ぎない。
「なにを言ってるんでやすか? そんなことはあっしだって、知ってるでやすよ」
 微笑み顔のまま、八は言った。今までと同じ、いつもと同じ平坦な声だった。
「発狂頭巾の模倣者なんて、偽物なんて、そんなものが必要だった時なんて一度だってあったことないでやす。発狂頭巾の旦那は、一人で、十分でやした。後追いも、紛い物もいらない、旦那が一人いれば、それだけで、どんな悪いやつも安心しては寝られなかった。どんなに上手く隠れても、旦那は必ず辿り着くから。紛い物にはそんなことは無理だ。だから、やつらは無駄なんでやすよ」
「それがわかっているなら、なぜ」
「だから、あっしは……」
 ぎらり、と八の眼差しの奥に黄色の燐光が輝いた。貝之介にはそのように見えた。
「八」
「あっしにもわからなかった」
 八は貝之介の声も聞こえていないかのように、唐突に言葉を吐いた。
「ずっとそばにいても、どんなに見ていても、旦那が何を考えているのか、どうして悪人を切れるのか、あっしにはわからなかった。何を考えて、どうして悪人を悪人だってわかるのか、わからない、あっしには、わからない、旦那の考えが旦那が何を考えてるのか」
「わかる必要はない、それが発狂頭巾だ」
 理論の筋道を辿らずに、真相に至る洞察力、発狂頭巾を発狂頭巾たらしめる発狂知性。常人がその思考を辿ることなどできやしない。
「でも、あっしは」
 八はそっと書物棚に『活劇 発狂頭巾』を置いた。優しく、いとおしむようにその表紙を撫でる。
「あっしは知りたかったんでやすよ。吉貝の旦那が、なにを考えていたのか。だから」
 笑みを浮かべたまま、八は言葉を紡ぐ。
「だから、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えたのに! それなのに!」
 不意に声を荒げて、八は叫んだ。
「どんなに考えても吉貝の旦那が何を考えていたのか、わからなかった」
「いいのだ。八。発狂頭巾は狂っていたのだ、その考えがわかるはずなどなかろう」
「でも、一つだけわかってたことがあるんでやすよ」
「なんだ」
 貝之介の声を聴いているのか、いないのか。貝之介の言葉を無視して八は続ける。ぽつりと、投げ出すように、言葉を吐く。
「あの時、旦那があっしを置いていったのはあっしが弱かったからでやす」
 『発狂頭巾』の表紙の上で八の拳がぎゅっと握られる。貝之介は息をのんだ。
「あっしが強ければ、旦那は一人で行くことはなかった。そうすれば」
 八は言葉を絞り出す。
「旦那は……お父上は死なないで済んだんでやす」
 八が顔を上げる。その細められた目は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。貝之介は八のそんな表情を見たことはなかった。八はいつも微笑んでいた。それなのに貝之介には八のその表情がひどく見慣れたもののように思えた。いつもの笑顔の裏にはこの表情が隠れていたように思えた。
 貝之介は何も言うことはできなかった。あの日から八は悔やみ続けていたのだ。後悔と自責を胸に剣の腕を磨き、発狂頭巾の背中を追った。
 そして今、ここにいる。
 八が笑う。
「だから、あっしはもっと強くならないといけないんでやすよ」
「八。お前はもう十分に強い。おそらく父上が生きていても、今のお前には勝てない」
「そんなことはありやせん。吉貝の旦那はあっしがどんなに鍛錬を積んでも届かないくらいに強かったでやす」
「それはお前がそう思っているだけだ」
「でも、だから、あっしは気が付いたんでやすよ。あっしが吉貝の旦那の考えていたことをわかる方法。あっしが剣の腕で旦那に追いつける方法」
「八」
「あっしが、発狂頭巾になればいいんでやすよ」
 八が目を開いて、貝乃助を見た。
 その瞳を見返して、貝之介は確信した。嘆息。鋭く問いかける。
「読んだのだな」
「どうでやしょうね」
 八がはぐらかすように笑う。だが、答えは明白だった。
 笑う八の目には黄色の燐光が宿っていた。
 いつか闇夜で見た発狂頭巾の両目の輝き。
 妖しく光る狂気の眼光。
 貝之介は腰のカタナを抜いた。
「そうか」
「貝之介さん、怖い顔をしていやすよ」
 八の声は穏やかな声だった。いつもと変わらない落ち着いた、穏やかな声。だが、なにもかもが異常なこの空間で、なにも変わらない声は何よりも異常だった。
「お前が発狂頭巾になるというのであれば」
 正眼にカタナを構え、その切っ先を八に向ける。いつか八に教わった通りの、正しい構え。
「私はお前を切らねばならない」
「なんですか、貝之介さん。気でも違ってしまったのですか?」
 なんてね、と笑いながら八は馬鈴の身体に刺さったままになっていたカタナに手をかけた。
「狂っているのは、あっしなんですかね、それともあなたなのか」
 書物庫の空調設備の排気と吸気が切り替わる。
 ごう、と一陣の風が書物庫を駆け抜けた。

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本作品はむつぎはじめ氏の主催する。
【むつぎ大賞2024】への参加作品です。


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