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黒猫とミャクミャク様のこと

 昔、猫を飼っていたことがある。僕が生まれるより前からうちにいる、黒い猫だった。姉のように僕の面倒を見てくれていて、アルバムをめくると写真の中で赤ん坊の僕をいつも傍らで見守っている。
 とても賢い猫で、僕が危ないところに行きそうになれば体を張って止め、僕が降りられないところに登って泣いていれば、親のもとに助けを求めて駆けて来たそうだ。さすがにその時のことは覚えていないけれど。
 ただ、いつも暖かくてふかふかした生き物が傍らにいたことだけはなんとなく覚えている。

 猫は僕が生まれたときにはもう大人だったので、僕が小学校に上がる頃には随分と歳をとってしまっていた。だから、僕の記憶にある猫はだいたい日当たりのいい窓辺に寝そべって、お昼寝をしていた。おひさまの光をたっぷりと浴びた黒い毛皮はとても暖かくて、その背中をなでているうちに僕もうとうととしてきて、気がつくと一緒になってお昼寝をしていたものだ。

 小学二年生の冬の始まるころ、猫がいなくなった。ふらりと散歩に出たまま帰ってこなかった。
 もちろん父も母も僕も必死になって探しまわった。猫が好きだった煮干しを玄関に置き、電柱に探し猫のチラシを貼り、夜眠るときにはいつでも入ってこれるように窓を開けておいた。
 
 本格的に冬が来て、寒くなっても猫は帰ってこなかった。僕たちはゆっくりと猫がいない生活に慣れていった。
「あの猫は賢い猫だったから」
 父が黒い毛玉のいない窓辺にぼんやりと目をやりながら言ったのをやけに覚えている。
「自分の最期を我々に見せたくなかったんじゃないかな」
 それを聞いて、僕も「ああ、そうなのだな。そういうことなのだな」と思ったのだった。たしかにあの猫はそういう気位の高いところがあったから。

 冬の切れ目、ポッカリと晴れた日に、僕は窓辺で日向ぼっこをしていた。一人で。両親は買い物か何かにでかけていたのだと思う。ガラス越しの日差しは暖かかったけれども、背中がなんだか寂しいなと思いながら、目をつむっていた。
 ふと、背中に柔らかな感触を感じた。柔らかくて暖かな感触。夢うつつに、帰ってきたのだと思った。「おかえり」と呟く。ごろごろと丸っこい唸り声が背中に聞こえる。懐かしい感覚に穏やかな眠りに落ちていった。
 
 がちゃり、と鍵の開く音に目を覚ました。両親が戻ってきたらしい。目をこすりながら、起き上がる。「ただいま」と母の声が聞こえた。猫の帰還を伝えようと、猫を抱えあげて玄関に急ぐ。
「帰ってきたよ、猫」
 え、という声がそろって、父と母の目線が僕の腕の中に向けられた。そしてそのまま固まった。
 にゃあ、と腕の中で猫が鳴いた。
 短い沈黙があって、父が首を振った。
「違うよ、それは」
「でも」
「違うよ、よく見てごらん」
 僕は腕の中のぬくもりに視線を降ろす。底にいるのは黒い毛むくじゃら、そのはずだったのに。
 
 そこにいたのは透明と赤の混ざりあった塊だった。猫の形と猫の手触り。けれども猫とは似ても似つかぬ色合い。いくつかの目がぎょろりとあたりを見渡している。それがごろごろとうなりながら蠢いていた。ちっとも黒くない。どうして猫だと思ったのだろう。
 ああ、と父はため息をつく。
「ミャクミャク様」」
 そう僕の腕の中の生き物に語りかける。
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫ですから」
 生き物は一声「みゃう」と悲しそうに鳴いて、僕の腕から滑り落ちた。
 水のようにこぼれ落ちた生き物は、猫のように着地した。
 父が恭しく玄関の扉を開ける。生き物は猫の歩きかたで扉に向かう。
「にゃう」
 出て生きざまに振り返り、一声そう鳴いた。その声は僕について来いと言っているように聞こえた。
「待ちなさい」
 母が厳しく叫んだ。振り返る。父が母の手を握っているのが見えた。
「大丈夫、行ってきなさい」
 僕はうなずいて、玄関をくぐった。
 猫は僕がついてきているのを見て、しっかりとした足取りで歩き始めた。

 ◆◆◆

 ボクハ ミャクミャク ミンナ ソウ呼ブ
 生キ物ノ 姿ニナルノガ 好キナンダ
 コノ前 河原デ 日向ボッコヲ シテイタラ 黒イ猫ニ 会ッタンダ
 オ昼寝ヲ シナガラ 色々 話シタヨ
 モウスグ 命ノナクナルコト
 家族ニ 優シクシテ モラッタコト
 良イ 一生ダッタト 笑ッテイタヨ
 デモネ 一ツダケ 気ガカリガ アルッテ
 弟ノ世話ヲ デキナクナルノダケガ 残念ダッテ
 セメテ 最期ニモウ一度 一緒ニ オ昼寝ヲ シタカッタ ソウ言ッテイタヨ 
 ソレガ アンマリニモ 残念ソウ ダッタカラ
 ソノ猫ガ 眠ッタママ 目ヲ 覚マサナク ナッテカラ 猫ノ真似ヲシテ 君ノトコロニ ヤッテキタンダ
 デモ ドウヤラ 上手ク 真似デキテ ナカッタ ミタイダ
 ゴメンネ

◆◆◆

 生き物、ミャクミャク様は川のせせらぎのような、木漏れ日のようなかすかに揺れる声でこう語った。
 ミャクミャク様が立ち止まったのは赤川のほとり。一番日当たりの良いところ。そこに黒い毛むくじゃらの塊が寝転がっていた。
 そっと触れてみる。ちっとも暖かくない。柔らかくもない。鼻の奥がツンと痛くなる。
 持ち上げるとぐんにゃりとやけに軽い感触がした。
 ゴメンネ
 ミャクミャク様が繰り返した。
 僕は首を振って答えた。
「ありがとう」
 抱きしめた黒い猫の体は冷え切っていたけれども懐かしい太陽に匂いがした。

 それが僕が飼っていた猫の思い出だ。
 突然、そんなことを思い出したのは、娘が犬を飼いたいと言い出したからだ。なんでも、娘の友人のところに子犬が生まれたらしい。
 ひと目見て可愛らしさに陥落して、なんとしても飼いたいと譲らない。
 僕は厳しい顔をして、生き物を飼う責任と労力と覚悟について問うつもりだ。けれども、結局はもらうことになりそうだと思っている。
 きっと、それは良いことだとも思う。
 どのような結末になるとしても。
 
 そして、ふと考える。
 その犬がいつか虹の橋を渡るときには、またミャクミャク様が現れるのだろうか。
 そのときにはもっと生き物の真似が上手になっているのだろうか

【おわり】

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