手口兄妹の冒険 vol.8
薄暗い廊下をミタケの大きな背中に背負われて進む。瓦礫をよけるときに少しだけ傾ぐ。萎え切った両腕がミタケの肩にしがみつく。両手のひらの閉じた唇は汗ばんだ塩気を感じている。
部屋を一つ一つ覗いていく。そのうちの多くが無人の部屋だった。なにかの拭いきれない汚れが飛び散った荒廃した部屋ばかり。
まれになにかのいる気配のする部屋はあった。部屋全体が肉のように柔らかい壁で覆われた部屋。わずかにうごめく巨大な肉塊が収められたガラスのケースが置かれた部屋。装置の隙間からぎょろりとした目がこちらを見つめてくる部屋。いずれの住人もミタケの呼びかけに反応はない。ピクリとも動かないか、意思を持たないかのように伸縮を繰り返すばかりだ。
「この中にはいないんだね?」
ミタケの問いかけに文則は頷く。患者たちの中に沙亜耶の面影のあるものはいなかった。面影のあるものがそもそも少ないのだけれども。それとも、と文則は身震いをする。今まで覗いた部屋のどこかに沙亜耶がいたのだろうか。最後に見た沙亜耶の小さな姿。そんなはずはない、と思う。どんなに変わり果てても文則には沙綾のことがわかるはずだ。本当に? 焦りに鼓動が早くなる。
「うん、急ごう」
文則の焦りが伝わったのかミタケはそう言うと足を早める。廊下は長い。部屋はまだある。
空の部屋、空の部屋、空の部屋、肉片の散らばった部屋、空の部屋、空の部屋、天井から肉塊がぶら下がった部屋、空の部屋。
沙亜耶はみつからない。
ついに廊下の端にたどり着く。最後の部屋だ。
「行こうか」
ミタケの声に頷く。
扉を開く。部屋の中が見える。
夕暮れの日差しの射し込む部屋だった。荒れ果てて入るけれども、少しだけ他の部屋より整った室内。正面に大きな窓。その脇にベッド。仕切りのカーテンが閉まっていて中は見えない。何かがいる気配はする。
「失礼するよ」
ミタケが仕切りの方へと向かう。窓から差し込む橙色の夕日が剥き出しのコンクリートの床にしましまの模様を作る。
ミタケの手が仕切りのカーテンにかかる。何か嫌な予感が背筋を走る。見たくないもの。見てはいけないもの。
「おやおや、面会なら受付を済ませてくださいね」
廊下から声が聞こえた。ミタケが振り向く。
白衣の男が入り口に立ちふさがるように立っていた。
「受付の方が眠ってらっしゃったものですから」
ミタケはそっと文則を背中から下ろしながら言った。文則は仕切りに捕まってなんとか立ち上がる。
「おや、君は……フミノリくんか、動きたいならそう言っておくれよ」
そう言って白衣の男は笑顔を作った。文則に言い返すための口はない。文則を隠すようにミタケが立ちふさがった。文則にはミタケの手がさり気なく尻のポケットの膨らみに伸びたのが見えた。
「ここの関係者の方なら、良ければお話を伺いたいことが」
「なんでも、私が答えられることなら」
平静を装ったミタケの言葉に、白衣の男は微笑んで答える。
「ありがとうございます。それでは、まず、ここはなんですか?」
「見ての通り、私が個人的にやっている病院ですよ。この町では病気になる方も多いですから」
「なるほど、その割には……」
ミタケは一度言葉を切り、白衣の男を見つめて続ける。
「患者さんの姿があまり見えないようですが」
「おやおや」
白衣の男は呆れたような声をあげた。
「結構評判はいいのですよ。ここまでの部屋もご覧になったのでしょう?」
「生きている患者の姿を見ていないのです」
「失礼なことを。皆さん、生きているのですよ」
白衣の男がニヤリと笑って続ける。
「病の形は人それぞれですから、治療の方法も人によって異なるのです」
「ドブンブレラの理念ですか?」
その言葉を聞いて、すっと白衣の男の顔から笑みが消えた。
「よくご存じで」
「仕事柄ね。フリーのライターをやっているもので」
「へえ、そうかい」
「人体実験をしているという噂もありますが」
「根も葉もない噂ですね。我々がやっているのは治療ですから。そこの子だって治療がなければとっくの昔に死んでしまっていたのですよ」
言いながら白衣の男は文則に目線を投げかけてきた。薄い瞼の眼差し。実験対象を見る目線。文則は視線を避けて目を落とす。
目線を落とした床の上。仕切りの影になにかがきらりと輝いた。
「ずいぶんと乱暴な治療ですね。口もきけなくなっている」
「死んで口なしになるよりはましでしょう」
オレンジ色の夕暮れの光に照らされたもの。そっとしゃがみ込んで拾い上げる。手の中にあるのは見覚えのあるもの。鳥の形の髪飾り。
それを見た時、文則の新しい口は蠢いた。文則の意志のもとに言葉をつむぐ。
「サ…ア……ヤ」
「おや」
白衣の男が目を見開く。
「いつのまにかそんなことができるようになったのですね」
すばらしい、と目を細めて手を叩く。
「妹さんも喜ぶでしょう」
妹? 男の視線は仕切りの方に向けられている。それじゃあ、やっぱりこの中にいるのは……
文則は仕切りに手をかける。隙間から中を覗き込む。
かたんと萎えきった足から力が抜け、しりもちをつく。ばたりと仕切りが倒れる。
「勝手に覗かれると困ります。個人情報というものがありますから」
男が淡々と声をかける。文則の耳には入らない。文則はベッドの上にあるものを見つめることしかできない。
ベッドの上には奇妙な形の肉塊が載せられていた。ひどく歪な人形の肉塊。どこか花を思わせるように胴体から節くれだった手や足、頭部が伸びている。東武に顔はない。ゴワゴワとした丸い塊。目も鼻も口もない無貌の頭部。
その代わりなのだろうか、胴に一つ大きな穴が空いている。縦に大きく裂けた穴。ゆっくりと開いたり閉じたりしている。その隙間からずらりと鋭く光る牙が覗いている。時折、奥から長く真っ赤な蛇のような舌が伸び、穴の周りを舐め回している。
疑いようもなくその肉塊は生きていた。
恐る恐る文則は肉塊に手を伸ばす。うごめく手を握る。懐かしいぬくもり。記憶との一致を否定したくなる。否定できない手触り。
「ちょっと失礼」
ミタケがカメラを構えて寄ってくる。シャッターを切るたびに部屋に閃光が満ちる。肉塊にカメラを向けながら、文則の耳元に口を寄せる。
「探していたのはこの……子?」
文則は小さく頷く。そうか、とミタケは低い声で答える。その声に潜んでいる感情はなんだろう。横目で白衣の男を見てからミタケは続ける。
「僕が引きつけるから、その隙に。少し目を瞑ってて」
ミタケがちらりと窓に目をやる。ここはどのくらいの高さなのだろう。考えるまもなく、ミタケが立ち上がる。思わず文則は目を瞑った。
パシャリ
シャッターを切る音と同時に、まぶた越しにもわかるほど部屋に閃光が満ちた。
「ぐわあああ」
「さあ、今だ。急いで!」
白衣の男が目を抑えて呻く。ミタケは叫んで白衣の男に掴みかかる。
文則は力の限りに肉塊を抱えあげる。肉塊の曲がりくねった手足が文則に絡みつく。弱った足でなんとか窓まで転がるように進む。
一度、部屋の中を振り返る。ミタケと白衣の男がもみ合っている。白衣の男がやけに大きく見えるのは気のせいだろうか?
「キャッシャーシャ!」
人間のものと思えない鳴き声が聞こえる。ミタケは勝てるだろうか? それとも。
窓に向き直る。肉塊を背負い直す。小さなぬくもりが背中に伝わってくる。
両手のひらの口で唾を飲み込んで、文則は窓の外へ身を躍らせた。
◆◆◆
「なるほど。それでドブンブレラを探してると」
店主のウリダは空になった文則のグラスに炭酸水を注ぎながら言った。
「ああ、それが唯一つの手がかりなんだ」
文則は喋り疲れた右の手のひらで炭酸水を一舐めして答える。
「生憎だけれども、何もしってることはないですね」
ウリダは残念そうに答えてから、少し考え込む。
「本当にそんな話なんかして良かったのかい?」
「どういうことさ?」
「私がドブンブレラの手先かもしれないじゃないか」
「それならそれであんたをぶち転がすだけさ。それに……」
酒場の扉が開いた。数人の男が店の中に入ってくる。
「どうやら手がかりは手に入りそうだ」
屈強な男たち。彼らは手に手に凶悪そうな武器を携えていた。
【続く】
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