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手口兄妹の冒険 vol.7

【前】

 病院での日々は恐怖と苦痛に満ちた日々だった。看護婦が古ぼけた台車を押して廊下をやって来るキーキーという軋みの音。その音を聞くたびに文則は吐き気がこみあげ、体が震えはじめる。残飯と汚濁の和え物。そんなものを体に入れたくないと思う。けれども、文則の意思を無視して両手の口は皿に積まれた塊を貪り食ってしまう。
  一度ひどく抵抗したことがあった。
 手のひらを拳に握り、食欲を堪え、皿を振り払い、残飯の入ったバケツを押し倒した。残飯が部屋に飛び散り、悪臭が部屋を満たした。看護婦は淡々と文則を押さえつけると、手際よく何かの薬品の入った注射器を文則の腕に刺した。ちくりとした痛みを覚えた瞬間に文則は意識を失った。
 目を覚ました文則はベルトで全身を拘束されているのに気が付いた。関節と言う関節を固められ身動きも取れない。
「すみませんね」
 しばらくして現れた看護婦は少しも申し訳なさそうでない口調で言った。
「元気なのは良いのですけれども、ご飯のたびに掃除をするのは面倒なので」
 そう言うと、指を開いたままで固定された手のひらに、どちゃりと例の残飯の混ざりものを乗せた。ざらりとしたぬめりを伴った嫌悪感を呼び覚ます手触り。文則の手のひらに取り付けられた口はそれをガツガツとおいしそうに平らげる。

「食欲はあるようだね」
 時折、白衣の男がやってきて文則を観察していった。残飯をむさぼる両口の様子。食べ終わった後には決まって口を開いて中を覗く。口を自在に動かせるのならば噛みついてやるのにと、文則は悔しく思った。
 男は文則の観察についてはさほど関心が内容だった。簡単なメモをとるだけですぐに帰っていった。サアヤのことを尋ねたくても、本来の口は縫い閉じられているし、手のひらの口はものを食べるとき以外にはわずかに蠢くだけで、文則の意思で動かすことはできなかった。

 男の診察と看護師の給餌の合間にはひたすらに空白の時間があった。身動きもとれず、ひび割れた天井を見つめるだけの時間。考えることは無数にあった。沙亜耶のこと、かつていた場所のこと、自分自身の改造された身体のこと。考えたところで行き止まりになることばかりだったが。
 考えることが尽きてから、文則は口を意識の下のに動かす練習をし始めた。まずは開くこと。口の蠢く動きに意識を合わせる。開く時の筋肉の動きに意識を集中する。神経を通っている信号、稼働している筋肉。それらを自分の脳みそで意識して動かそうとする。何度も、何度も。
 長い時間をかけて、ようやく、口を開くことができるようになった。次に同じ要領で口を閉じさせる。こちらの方が時間がかかった。不思議なことに長いこと口を閉じているとやけに息苦しく感じられた。手のひらの口では息をしていないはずなのに。
 口を開き、閉じる。簡単な動きだけれども、それだけの動きができるだけでようやく文則は両手の口が自分のものになったような気がした。
 それから、舌を動かすことに挑戦した。上に、下に、右に、左に。口の中を舐めるように。口の中の不快な食べ残しをこそぎ取れるようになったのはひどく心地よいことだった。
 舌を動かせるようになって気が付いたのは、自分の歯がひどく鋭いことだった。一度、歯の先で舌を傷つけてしまったこともある。
 その鋭さを自覚してから、文則は白衣の男や看護婦に自分が口を動かせることを隠すようになった。知られていないことがいつか役に立つような気がしたのだ。どちらにせよ、食べ物を目の前にしたときには口は文則の制御を外れるので、不要な心配だったけれども。

 ある日、建物のどこかで爆発音が聞こえた。続いてばたばたと廊下を走り回る音。銃撃音。悲鳴。それから訪れる恐ろしい静寂。
 体を起こして状況を確かめようにも、がんじがらめに固定されていて体を起こせない。
 足音が聞こえてきた。一人。重たい足音。
 体を緊張させて待つ文則に足音が近づいてくる。
 病室の扉から巨大な影が覗く。
 パシャリ
 音ともに閃光が走った。思わず目をつぶる。両手の口からうめき声が漏れる。
「生きているのかい?」
 驚いた声が聞こえた。眩んでいた目が戻ってくる。
 カメラを携えた大きな男が驚いた表情を浮かべていた。
「僕はミタケ。フリーの記者だよ」
 巨漢が文則の顔を見て言う。答えようとしてもうめき声しか返せない。
「大丈夫、今解くから」
 言いながら巨漢はベルトを外した。
「立てるかい?」
 ベルトを外し終えて、ミタケは文則に手を差し出しながら尋ねた。文則は立ち上がろうとして足に力が入らず、よろめいた。随分長いこと拘束されたままだったのだ。
「アァア」
 右の口が声にならない声を出す。沙亜耶。探さなくては。萎えきった足を踏み出す。這うように部屋の外を目指す。
「なにか……誰かを探しているのかい?」
 ミタケが尋ねる。その声に滲む気の毒そうな音は気づかないふりをして頷く。沙亜耶はどこに?
「来た方向には誰もいなかったよ」
 言いながらミタケは文則を背中に乗せた。大きな背中。ミタケは力強い足取りで廊下を歩き始めた。崩れかけた廊下には気のせいか血なまぐさい鉄の匂いが漂っていた。

【続く】


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