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手口兄妹の冒険 vol.5

【前】

数年前:ドブヶ丘無垢露通り

 その町並みは混沌と悪意、汚染と毒性がこびりつき、いびつな印象を見る者に与えている。そこかしらの物陰にうずくまる住人たちは時折通行人たちにうつろな視線を投げかける。
 数人の住人が通り過ぎた二人組に訝し気に眺めた。少年と彼より少し幼い少女だ。少女は疲れ切った様子で、今にも倒れそうになりながらとぼとぼと歩いている。
  その手を引く少年はやはり疲れ果てているけれども、おどおどとあたりを見回しながら歩いている。
  どうしてここにいるのだろう? 少年、手口文則は胸の内で自問する。
 どこかここではないところ、もっと清潔で息のできる場所にいたことだけは覚えている。それがどこだったのか、いつからここにいるのか、どうしてここにいるのか、記憶は、ドブの悪臭の向こうに霞み、消え去りかけていた。
「おにいちゃん」
 細い声に文則は立ち止まって振り返った。妹の沙亜耶。真新しかったよそ行き用のワンピースは、泥にまみれて汚れてしまっている。
「大丈夫? 沙亜耶」
「おなかすいた」
 絞り出すような声。文則は困って眉を寄せる。ポケットの中は空っぽで、食べる物も食べる物を買う金もなにもない。この町に来て数分、気が付いた時には何者かに奪い去られていた。
「もうちょっと我慢できる?」
「うん」
 力なく、沙亜耶が答える。手を取ってそっと握る。歩き始める。つないだ手から伝わるかすかな温かさ。この汚くて曖昧な町でただ一つだけ確かなもの。
 兄妹は手を繋いで歩き続ける。どこかへ向かう場所があるわけではない。留まれない場所から去るための彷徨。ここではない場所へ。何か食べる物のあるところ。せめてどこか少しでも安全な。
 歩いても、歩いても、あるのは汚泥にまみれた瓦礫ばかり。悪意に満ちた街並みはどこまで行っても均質な無秩序を見せていた。
 不意につないでいた手が重たくなって、文則は振り返る。沙亜耶が座り込んでいる。
「もう少し歩こう?」
 文則が軽く手を引っ張る。沙亜耶は力なく首を振る。文則は困ったように辺りを見回した。幸運なことに道端に人のいない瓦礫を見つけた。なかば沙亜耶を引きずるように連れていき、沙亜耶を座らせる。しばらく文則は彼女を守るように立っていたが、やがて力尽きたのか沙亜耶の隣に座り込んだ。
 通行人たちは一様に無気力な様子で、右から左へ、あるいは左から右へ通り過ぎていく。時折、二人に目を向ける者たちもいる。一切の親切心のなさそうな、可食部を探るようなまなざし。文則は沙亜耶をその視線から隠すように抱きしめた。
 弱々しい息遣いが聞こえる。少しでも勇気づけようと文則は頭を撫でる。こびりついた泥のごわごわとした手触り。その向こうに、小さな暖かさを感じる。手が止まる。髪についた泥に小さな鳥の形の髪留めが埋まっていた。
 髪を引っ張らないように外して、服の裾で泥をぬぐい、留めなおしてやる。沙亜耶に残された向こうの証。薄曇りの鈍い日光に照らされてきらりと光った。
「こほっ、こほっ」
 突然、沙亜耶が咳き込んだ。驚き、体を離す。咳は次第に酷くなる。
「沙亜耶。沙亜耶」
 文則は背中を擦り必死に呼びかける。鼓動が高まるのを感じる。どうしようと自問する。助けを求めて顔を上げる。通行人たちは厄介ごとを避けるように足早に立ち去っていく。
「ごほっ!」
 ひと際強く、沙亜耶が咳き込む。内臓を吐き出すような勢い。
「沙亜耶!」
 痙攣する体を抱きしめる。
「どうか、どうか、誰か、助けてください」
 祈る。どうか、沙亜耶を、残されたたった一つの宝物を奪わないでください。咳はますますひどくなっていく。その勢いに反比例して沙亜耶の生気はどんどん失われていく。
「おやおや、どうしたんだい」
 ふいに声が降ってきた。驚いて、顔を上げる。
 背の高い人影が二人を見下ろしていた。
「沙亜耶が、妹が、急に咳をし始めて」
「ほう」
 人影は覆いかぶさるようにしゃがみこんだ。白衣を着た男だった。どこか爬虫類を思わせるぎょろりとした目が、咳の止まらない沙亜耶をのぞき込む。喉に触れ、口の中を覗き込み、瞼を開かせる。
「君たちは、ここにきて日が浅いのかね」
 触診を続けながら、男は文則に問う。
「わからないです、けど、たぶんそうだと思います」
「なるほど」
 自信なさげな文則の声に男は頷く。
「この町の空気はあまり清浄とはいいがたいからね。拒否反応を起こしたんだろう」
 落ち着いた声で男は続ける。
「大丈夫、すぐに平気なようにしてあげるよ」
「でも……」
「うん?」
 口ごもる文則を不思議そうに見つめる。
「お金がないのです」
「ああ、そんなことか」
 男が軽く笑いながら言った。
「心配しなくていい。私はね、困っている人を助けるのが好きなんだ」
 それに、と男は続ける。
「もしも気になるなら、君が体で払ってくれる、というのでもいいんだよ」
 男が文則は手を差し伸べる。少しだけ落ち着いた沙亜耶がひゅーひゅーと苦しげな息をする。文則はわずかにためらってから男の手を取った。 
「よい契約だと満足してもらえると思うよ」
 男の裂けたような大きな口の端が、くいっと吊り上がる。男の白衣の胸についた泥よけ傘のバッヂがきらりと光り、文則の目をさした。

【つづく】


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