マッドパーティードブキュア 226
ドブヶ丘の混沌は空白を嫌う。なにかの偶然でわずかにでも余白ができたら、すぐに何かが入り込む。入り込んで、それでも隙間があれば、また別の者が入り込む。過剰な密度の混沌、それがドブヶ丘の混沌の性質の一つだ。
だから、遠目に窺ったかつての女神の棲家に、何者かが棲みついている気配を感じてもメンチは何も不思議には思わなかった。むしろ、棲家の形が保たれていることに違和感があったくらいだ。以前に見てからもうずいぶんと期間が経っているから、別の地形になっていてもおかしくはなかった。
「あそこでやすね」
ズウラが傍らで呟いた。
どぶくら川にかかる片こんべ橋の下。ブルーシートと段ボールで囲われた粗末な住居だ。ブルーシートの向こうで何か複数の者が蠢いているのが見える。
「なにかいやすね」
「ああ」
メンチは頷く。
「あたしが行くよ」
老婆が一歩、足を踏み出した。ズウラが頷く。
「様子を見てきてもらえやすか?」
「ああ」
「できるだけ、気づかれないように」
「ああ」
それだけ言って頷くと、老婆は歩き始めた。音もなく、気配を消して静かに近づいていく。
ズウラとメンチは物陰に潜んで様子を伺う。よほどの手練れでなければ、気配を辿られることはないが、いざとなれば駆けつけられる距離だ。
「何がいるんだと思いやす?」
「なにがいたっておかしくはねえだろ」
軽口をたたくズウラにメンチは小声で答えた。影の領域で戦ってきた混沌の獣たちに比べれば、街に存在する脅威はそこまで恐ろしいものではない。それでも、油断するつもりにはなれなかった。
ドブヶ丘では気を抜いたものから命を失っていく。信じられないほどの膂力を持つ豪傑や、人知を超えた知恵を持つ賢者がわずかな油断から命を落とす様はしばしば語り継がれてきた。だから、メンチは油断なく棲家を見張る。小さな異変も見逃さないように。
「んーっと、あんたらはどなたさんだい?」
ふいに、背後から声がした。
【つづく】
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?