【短編】ドブヶ丘環状線、銀の弾丸、カミグラム
「ダアシャリアスカッコミジョオシャアゴエンロオカーツァイ」
奇妙なチャントがヨドミノ通りに響く。「ピピー」と警笛を模した声聞こえたかと思うと、続いてジリジリと地響きが鳴り始めた。
巨大なタイヤが動いていた。大人の背丈ほどの厚みのあるタイヤだ。直径はその二、三倍ほどはあるだろうか。動力は一人の男だった。襟の高い制服と大きな制帽を被った小柄な男が肩に背負ったロープでタイヤを曳いているのだった。当然その速度は人が歩くよりはるかに遅い。しかし、ゆっくりと一歩一歩、男は足を前に出す。
男は一日をかけてドブヶ丘をタイヤを曳きながら回る。あまり速くないので乗るものは誰もいないがドブヶ丘の住人は「ドブヶ丘環状線」と呼んでいた。もしもふとした気まぐれでゆっくりと通り過ぎる巨大なタイヤを見上げる住人がいたなら、いつもと違うことに気がついただろう。
巨大なタイヤに、今日は一人の青年が腰かけていた。
青年はぼんやりとうつむいて、手元の手帳をパラパラとめくっている。ときおり、ピクリピクリと痙攣するように身を引き攣らせて虚空を見つめる。しばらくしてふと我に返り、ため息をつく。そしてまた手帳をめくる。
彼はタイヤに腰かけたままそんなことを繰り返していた。
「ツギャアタキャーヴァゲルトエイタキャーヴァゲルトエイトブクロニゴチューダシィー」
時折タイヤが止まる。男のチャントが響く。再び動き始める。
青年はゆっくりと移り変わる外の景色に目をくれることなく、手帳をパラパラとめくり続ける。
「カミグラムか」
声が降ってきた。彼が顔を上げるとタイヤの対面にいつの間にか、一人の女性が座っていた。背の高い女性だった。この町では珍しく白さを保った白衣をまとい、手にはスケッチブックを持っている。女性の目線が手帳に注がれているのに気が付いて青年は手帳を閉じた。
カミグラム。
10年前ある映像が作られた。色彩と振幅のみで構成されたその映像は見る者の脳みそを涅槃に導いた。ドラッグ業界に熱狂と混乱をもたらした電子ドラッグは規制の厳重化により裏世界の表舞台から姿を消した。今では後ろ暗い業界人の間でさえ禁忌として扱われている。オリジナルの映像の制作者が暗殺されたという噂がタブー視に拍車をかけた。
けれども一部の好事家はあきらめなかった。映像が規制されれば音声で、音声が規制されれば生成プログラムで、涅槃にいたる映像を追求し続けた。規制と開発のいたちごっこの果てに生まれたのがカミグラムだ。
模様の書かれた紙の束素早くめくって発生する残像効果を利用した幾何ドラッグ。電源や電子媒介を必要としないカミグラムはドブヶ丘という土地の需要を満たし、ドブヶ丘の一つの産業となっていた。
女性の声を無視して青年がパラパラとめくる手帳のページの端。そこには奇妙な幾何学模様が描かれている。ページを素早くめくると幾何学模様が妖しく蠢く。それを眺める青年は手帳を眺めながらも夢に吹けるような遠くを見つめるような目つきをしている。
「ちょっと見せてよ」
女性が手を伸ばし、青年の手に力なくのせられている手帳を取り上げた。
「なにを」
青年が抗議の声を上げる間に、女性は手帳をめくる。感心したように模様を見つめる女性の瞳は、けれども夢想に入る様子はない。青年は外の風景を眺めるふりをしながら女性を見ている。
「ありがと」
最後のページまで目を通して女性はそれだけ言って青年に手帳を返した。彼は不服さのにじみ出る無表情で手帳を受け取った。
「ターチターチマァナクダァシェリスーゴチューダシィダァシュリマスー」
タイヤが止まり、チャント、再び動き出す。
「どうですか」
青年が手の中の手帳を見つめたまま尋ねた。のろのろと変わっていく外の風景眺めていた女性は、少し眉を上げ考えて答えた。
「narrow系ね、最近はやってるよね」
「それ以外だと売れないですし」
narrow系はカミグラムのジャンルの一つだ。細い筆跡で比較的小さな面積に幾何学を刻むもので、一定の形式を共有できることから生産性が非常に高い。現在非常に人気のあるジャンルである。
「ふうん」
女性は興味なさげに答えると、また外の風景に目をやった。青年はその横顔をにらみながら、もどかしそうに腰かけているタイヤをカリカリと引っ掻いた。しばらくの沈黙の後、絞り出すように口を開いた。
「このカミグラムはどうでしたか」
「それ? あー、そうだねえ……」
「この」を強調する青年の質問。女性は言葉をいったん区切ってから続けた。
「なんか、窮屈そうだと思ったかな」
「しかたないでしょう。それがnarrow系なんだから」
「あー、まあそうかもね」
少し頬を染めて言い返す青年に、女性は肩をすくめながら答えた。
「感想を欲しがったのはそっちだよ」
「……ありがとうございます」
への字に口を曲げながら、青年は答える。手帳を手の中に隠すように握りしめる。その黒い表紙に目を落とす。
「楽しい?」
「え?」
唐突な声に青年は目を上げる。上げた目が女性の目と合った。その両目は彼を見つめているようで、同時にどこか遠くを見ているように見えた。カミグラム作成者特有の焦点の合わない目つき。その目つきのまま女性は疑問を続ける。
「君は書いてて楽しい?」
「別に、楽しくて書いてるわけじゃないです」
「あ、そう」
女性は目を逸らさない。どこも見ていないように見えて、脳の中身をのぞきこんでくるようなその目線に、青年もまた目を逸らせなくなる。
「どうしようもないんですよ」
言葉が口から転がり出た。弾みがついたように言葉は次々と流れ出る。
「本当は流行りのテンプレなんて書きたくない。いや、結局流行りのやつを書いても、買ってくれる人なんていないんだ。でも、流行りでないのを書いたらもっと……」
「それは、わからないんじゃないの」
途切れた青年の言葉に女性が尋ねる。青年は女性を暗い目でにらみつける。
「知ったふうなこと言わないでくださいよ。書きましたよ、書いたことありますよ。流行りじゃないやつだって、これは絶対トベるってやつ。オリジナルにも負けないと思うのもあった。でも、誰も見向きもしやしない。そうでなきゃこんなところにはきませんよ」
流れ出始めた言葉は止まらない。
「書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても、何にもならない、こんなどん詰まり、どこにも行けやしないんだ」
はっ、と笑って青年はタイヤを叩く。
「このタイヤと一緒。ぐるぐると同じところをだらだらと進んで結局どこにも行けやしないんだ」
「そういうもんかね」
「そういうもんなんです。今は」
彼の熱弁を女性はため息交じりの相槌で遮った。我に返った青年は気まずそうに手帳の表紙を軽く擦った。誤魔化すように鼻を鳴らしながら言う。
「どうせ、もう書いていないんでしょう」
「まさか、私は毎日すごい量のカミグラムを書いてるよ」
「じゃあ見せてくださいよ」
「誰にも見せる気はないけどな」
「じゃあ嘘だ」
「そう思う?」
女性が聖なるの目を覗き込む。混沌のように細動する瞳から彼は目を逸らす。構わずに女性は彼を見つめたまま、ゆっくりと言葉を発した。
「銀の銃弾なんて存在しないんだよ」
「はい?」
「撃てば絶対に敵を殺せる銃弾なんてない」
「そりゃそうでしょうよ。だから」
「そう、だから、当たるまで打ち続けるしかないんだよ」
「そんな」
「あの人ね」
青年の反論は女性の声に遮られた。女性はタイヤを曳く男に目線をやる。
「最初はもっと遅かったんだよ」
タイヤを撫でながら続ける。
「二日で町を一周してたかな」
「それがどうしたんです」
「今は、一日で一周してる。それもだんだん速くなっている。なんでかわかる?」
突然の問いかけに青年は戸惑いながら返事をする。
「そりゃあずっと曳いてたからじゃないんですか」
「そう誰も乗らないのに、ずっと同じところをぐるぐると……だらだらとね」
二人の会話が耳に入っているのかいないのか、男はただ黙々と前に進み続ける。ゴリゴリとタイヤが地面を擦る音だけが聞こえる。その小柄な背中が突然とてつもなく巨大なものになったように青年には感じられた。
「……だから、なんだっていうんです」
絞り出した声はひどくかすれていた。
「別に。ただ、同じところを回ってるように思えても、案外進んではいるかもよってこと……なのかな」
「……知りませんよ」
不確かな形で着地した女性の言葉を聞き、車掌の背中を見つめたまま青年は答える。
しばらくの沈黙の後、再び女性が口を開くいた。
「別にどこにだって行けるんだし、どこにでも行きゃいいんじゃないの?」
「この町じゃなきゃカミグラム書けませんよ」
「別に書かなきゃいけないってことはない。なんだってできるだろ。君は、まだ」
「え?」
これまでの会話では聞いたことのないような、この女性には似つかわしくないような、引き絞るような声。その声の意味を捉えかねて、青年は女性の顔を盗み見た。
「例えば外でカミグラムを辞めて生きたっていいだろう?」
「それは……」
「ツギャーヴェーノォヴェーノォ、オデッチガミィガースー」
男のチャントが響く。外を見れば、首縊川のほとりに着いていた。
「この川を下れば外に出られるよ」
女性が言う。青年は何も言わない。ただ、首縊川を見ている。
「マァナクダァシェリスーゴチューダシィダァシュリマスー」
男のチャントが響く。
「行かないの?」
青年は答えない。無言のまま、立ち上がる。女性はそれを見ると無しに見ている。
青年は思い返す。
外の世界のことを胸を焼く清浄な空気、日の光、明日への希望のある生活。
ごくり、と唾をのむ。いつの間にか手のひらがじっとりと汗ばんでいる。ズボンで汗を拭こうとしたときに、握りしめていた手帳のことに気がついた。
パラパラとめくろうとする。汗に湿った手帳は上手くめくれない。細かく、小さな模様が不格好にうねる。
「ダアシャリアスカッコミジョオシャアゴエンロオカーツァイ」
男のチャントが響く。タイヤが動き始める。青年はタイヤに腰を下ろした。
「やっぱり僕は……」
言いかけて対面に誰もいないことに気がつく。慌ててタイヤの下を見ても誰もいない。ただ首縊川が澱んで流れているだけだ。
さっきまで女性が座っていた辺りに、スケッチブックが置いてあった。青年はおずおずとスケッチブックに手を伸ばす。
「これは……」
スケッチブックの最初の数ページにいくつかの幾何学模様が描かれていた。大胆で、それでいて端整な模様。
ページをめくるうちに彼は奇妙な陶酔感にいざなわれた。モノクロで描かれているはずの模様に色が見え始める。ドブヶ丘の雑音が消え、天上から音楽が降るって来るのが聞こえた。
青年は慌ててページを閉じる。
興奮した様子でスケッチブックの表紙を見つめ、しばらくしていらいらとしたように髪を掻きむしり顔を伏せた。
しばらくして青年は再び体を起こした。
スケッチブックを開く。今度は白紙のページ。ポケットからペンを取り出す。
ひとつ深呼吸をする。ドブヶ丘の澱んだ空気が肺を満たす。
青年は白紙のページに一本の線を引く。
その線は太く、荒々しく、生命力に満ちた線だった。
【終わり】
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