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手口兄妹の冒険 vol.1

 第三管区外れの廃倉庫前

 廃倉庫のひさしから落ちた雨だれが分厚い外套に染み込んでくる。ドブケ丘に降る雨は町のあらゆるものと同じように耐え難い悪臭を放っている。匂いが肌に侵食されているような気がしてサナダは手を鼻に運んだ。気分の悪くなるような悪臭に外套の裾で手を拭った。匂いは消えず、ただひどくなっただけの気がする。サナダはため息をついた

 通りにむかう角に目をやる。アイモトが立っている影だけが見えた。アイモトはクニハラに拾われる前、ドブ浚いをしていたときからの相棒だ。顔は見えないがうんざりした顔をしているのがわかる。雨の中見張り番をするというのはあまり楽しいことではない。
 クニハラと今日の取引相手が廃倉庫に入ってからもう随分経つ。
「なんか揉めてんかな」
 今日の取引相手を思い出す。爬虫類のような薄気味悪い目つき。むこうは護衛をつけていなかった。倉庫に同行しようとしたサナダを制してクニハラは言った。
「おめえらは表で張ってろ」
 自分たちが聞くべきでない取引なのだろうか。ごしごしと手のひらをこすり合わせる。荒事になったとしても対マンでクニハラが遅れを取るとは思えないが。なにか、予感がする。うなじがちりちりと焼けるような感じがする。
 外套の内側、腰の後ろに交差するように下げたナイフの柄を撫でる。ドブ浚いでで拾ったドブ鉈から削り出したナイフ。同じ日に拾ったもう一本のドブ鉈はアイモトがナイフにして使っている。
 ぶるりと手の内でナイフが震えた気がして、サナダは顔をあげた。
 通りに向かう角、アイモトが立っていた場所に目をやる。
 そこにアイモトはいなかった。
「アイモト?」
 雨の中に声をかける。返事はない。ナイフに手をかけ、一歩踏み出す。悪臭の雨がまとわりつくように外套を包む。
 角に近づく。誰もいない。雨に濡れた地面を見る。ひび割れた薄汚れたアスファルト。淀んだ水溜りはわずかに赤い。
 その意味を理解する前、感じた気配に、振り向きざまにナイフを抜き、背後を切りつけた。ナイフが空を切る。
「おっと」
 声が聞こえた。振り切ったナイフを引き、身構え、声の主と対峙する。
 奇妙な男だった。赤い水玉の半透明のPV製のレインコートに身を包んだひょろりとした長身の男。目深に下ろしたフードの下の口元に大きな口があしらわれたマスクをしている。
「手荒なことをするつもりはないぜ」
 いやに通る声で男が話しかけてくる。なにか奇妙な感じがした。声のわりにマスクの下の口が動いていないように思えた。サナダをとめるように突き出した右手には薄汚れた水玉の襤褸が巻き付けられている。だらりと垂れた左手も同じく薄汚れた襤褸に包まれている。
「じゃあ、どこかに行きな。ここは通行止めだ」
 言いながら、サナダは一歩足を引いた。なぜ? 男の異様な目に気おされたのだろうか。ぎらぎらと、ドブ川の濁りを煮詰めたような目。男は何も言わない。サナダはさらにもう一歩後ろ足を引く。今度は気おされたのではない。飛び掛かる助走のための後退。引いた足が何かを踏んだ。固い感触。男から意識を外さずに、目線を下に落とす。
 視界に映ったものに違和感を覚える。なじみのある形。大ぶりなナイフ。ドブ鉈から削りだしたナイフ。見慣れたその柄についた見慣れぬ赤い染みがやけに目を引いた。
 ぞわりと背中の毛が逆立った。
「アイモト」
「うん?」
 思わず漏れた言葉に、男はなんの感情もこもらない返事を返す。
「ここに男がいなかったか?」
「ああ、まあまあ強かったよ」
 過去形で語られた言葉の意味を認識する。血が沸き立つ。息を強く吸い。地面を蹴る。ボスの教え。サナダは一瞬で最高速度にいたる。瞬きの半分の間に二人の距離が縮まる。同時にナイフを振りかぶる。男が目を見開く。刃の距離。男が右手を突き出す。その右手を刈るようにナイフを振り下ろす。
 完璧な軌道。完璧なタイミング。突進の勢いの乗ったナイフは肘まで引き裂く。
 はずだった。
 奇妙な位置で刃は止まっていた。
 男がかざした右の掌、その表面に受け止められるようにナイフは静止していた。今度はサナダが目を見開く番だった。
 とっさにナイフを引こうとする。固定されているかのように動かない。
 サイバネか、あるいは手に巻いていた襤褸切れに仕掛けが隠されていたか。激昂し、平静を欠いたことへの後悔がサナダの脳裏によぎる。
 あるいはその間にナイフから手を離していれば違う結末を迎えることができただろうか。
「仕掛けてきたのは、あんたのほうだからな」
 今の一合で男の顔からマスクが外れていた。その顔を見てサナダは息をのんだ。
 男の口があるべき場所には乱雑に縫い閉じられた傷口だけがあった。
 それでは、男の声はどこから?
 混乱するサナダの目の下、はらりと男の左手に巻かれていた襤褸切れが落ちる。
「ちょっとした特別製でね」
  サナダは再び息をのむ。
 露になった左の掌、そこに大きな口が蠢いていた。ぎっしりと牙の生えたおぞましい口。
 動かぬナイフの刃の下、右掌に目をやる。襤褸切れの下にはやはり悪夢のような口に生えた牙が刃を咥えこんでいた。
――なんだお前は
 驚愕の声がのどから出るよりもっと早く、男の左手の牙がサナダの喉笛を食いちぎった。

【つづく】


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