見出し画像

肉を試みる

 この話はお肉仮面についての話だ。

 君も見たことぐらいあるだろう? カマトトぶるのはやめたまえ。この街に住んでいて一度としてお肉仮面を見たことがないなんてそんなことがあるはずがない。通り過ぎたファストフード店の行列の中に、すれ違う電車の窓の向こうに、あるいは知らないビルの喫煙所で、お肉でできた仮面を確かに見たことがあるはずだ。


 なるほど、たしかに多くの人が(それは私も同じだという意見は否定しない)お肉仮面のことを見ても、見なかったことにしているのは知っている。ちらりと視界に入っても、次の瞬間には意識から消え去っている。
 それでも君は見たことはあるはずだ。改めて君の中の記憶を確かめてみたまえ。記憶の風景の中で確かにお肉の仮面が君を見返していているはずだ。

 では、逆にどうして人はお肉仮面になるんだろうか? 君は「想像もつかない」と言うかもしれない。ほとんどの人間がそうだ。あるいはお肉仮面本人に聞いたところで、確かな理由を述べられるとは限らない。
 しかし、案外身近なところからお肉仮面への道は続いているのかもしれない。

 例えばAの場合を見てみよう。

 Aももちろんお肉仮面を見たことはあった。幼少期に見かけたときには親に「あれはだあれ?」と尋ねたこともあったかもしれない。そんな時に親が「なんでもない」と手を強く引かれるのを繰り返すうちに、「そういうもの」なのだという認識がAの中にも形成されていった。
 大人になり、一人暮らしを始めたころにはAの意識からお肉仮面は消え去っていた。目に入っても見ていない。そういうありふれた均衡に落ち着いていった。

 均衡が崩れたのはささやかなきっかけだった。

 クレジットカードのポイントが随分と貯まっているのにいるのに気が付いたのだ。誕生日から一週間ほどたったころだった。一人で暮らしていると誕生日は他の364日と区別のない一日に過ぎない。それでも、区切りとしてのなにかを欲しがる気持ちが、どこかに残り続けていた。
 そんな時に携帯電話のにクレジットカードのポイントの保有期限がもうすぐ切れると通知が入ったのだ。働き始めたときに作ったカードだった。家賃の支払いや、ちょっとした買い物をするときに使い続けて、気が付くとだいぶ良い数字になっていた。
 その数字を見たときに自分にちょっとした贈り物をすることを思いついたのだ。

 何がうれしいだろうか? と考えて少し悩むことになった。仕事をして家に帰って寝るだけの生活。それだけ働いても衣食住にかろうじて足りる額しか稼げやしない。金も時間も趣味に回せるほどの余裕はない。
 では、衣食住のいずれかに回すかと考えた。寝るだけの家やら、会社と家を行き来するだけの服やらにお金をかけるのもばからしいことのように思えた。

 それでは? 安直ではあるけれども少し良いものを食べるのはどうだろう。食べればなくなるとしても、美味しいものを食べた記憶は強く残るだろうし、良いものを体に取り込むのは良いことのように思えた。
 二度寝から覚めた休日の昼下がりに電車に乗って隣町の百貨店に向かったのだ。

 百貨店の地下の食料品売り場には高級な肉を扱う精肉店があった。スーパーのようにパックに詰められた肉たちではなく、赤々としてた美味しそうな肉がショーケースに並んでいる。
 値段を見て少したじろいだ。いつものグラム50円の鶏肉が半月分は買えそうな数字が並んでいる。けれども、と懐の財布を撫でる。今日は強い味方がいるのだ。
 勇気を振り絞り、店主に(ふくふくと超えた明るい笑顔の男だった)声をかけ、ショーケースの中の牛肉を注文した。二番目くらいに高価な分厚い塊肉だ。店主は笑顔で答え、肉の金額を告げる
 告げられた代金に平静を装い、「カードで」とクレジットカードを渡す。店主は笑顔を崩さずにカードを受け取ると機械に読み込ませ、暗証番号を押すように、と示してきた。少し苦労して暗証番号を打ち込む。しばらくして通信がうまくいったことを示す通知音がなり、カードを抜き取る。
 その間に店主は肉を形良く切り取ると、手際よくくるくると木の皮の模様の紙に包み、手提げ袋に入れてくれた。
「まいどあり」
 陽気な声とともに差し出された肉を受け取った。

 そのまま帰るのがなんだかもったいなくて、百貨店の屋上にあがった。そこはちょっとした広場になっていて、街を見下ろせる。ベンチに座り、手提げ袋を膝の上に置く。ずっしりとした重みを感じる。その重みで口の中によだれが湧いてくる。どうやって料理しようか。色々の案が浮かぶ。

 視線を感じたのはその時だった。

 広場の反対側、建物の影に置かれたベンチに一人の男が座っているのが見えた。男はお肉仮面だった。
 遠く離れている上にお面を被っている。何を見ているのかはわからない。それでもどうしてだか、Aは自分が見つめられているように感じた。
 目線を逸らす。感じる視線は変わらない。
 いつものように見ないようにしようとする。けれども一度意識してしまったお肉仮面はどうしても認識の隅に存在し続ける。
 お肉仮面は何も言わない。微動だにしない。
 浮かれた気分に水を差された気がして、Aはベンチから立ち上がり、足早に屋上を立ち去った。

 狭い自室に戻り、窮屈な台所で、包み紙を開ける。白い脂の散った赤い肉の塊が蛍光灯に照らされて輝いた。よく洗った手で表面に触れると吸い付くような湿り気を感じた。
 ごくり、と唾を飲み込む。
 牛肉を食べるのは随分と久しぶりだ。ましてやこんな高いお肉なんて……。
 心臓が高く鳴るのを感じる。

 ふ、と邪悪な疑問が頭に浮かんだ。お肉仮面はなぜ、お肉の仮面なんてものをつけているのだろう。それは百貨店の屋上であのお肉仮面を見たせいだろうか。疑問をかき消そうと頭を振り、フライパンを取り出しコンロに乗せる。

 油をひきながらも、考えは進む。例えば……
 自分も試してみればわかるのだろうか。
 包み紙の上の肉を見つめる。偶然にも顔を覆うのにぴったりな大きさをしている。目の部分に穴を開ければ、ちょうど仮面のようになるだろう。
 
 なに。少し、試して見るだけだ。結局最後には食べて消えてしまうのだから変わらないだろう。
 誰に言うともなく内心で言い訳をしながら、ハサミを取り出し、肉に穴をあける。目と目の間と同じだけの間隔をあけて。
 鼓動が高まる。
 肉を持ち上げて、顔に寄せる。開けた穴に目を近づける。よだれの湧く肉の匂いが鼻を満たす。もうやめておこうという気持ちと、もう少し近づけたいという気持ちが同時に湧き上がる。後者の気持ちが少しだけ勝る。少しづつ、肉が顔に近づく。もう少しで顔に触れる。なに、触れたところで洗えば問題ない。食べるのは結局自分なのだから。
 ついに肉が鼻に触れる。しっとりとした湿り気を鼻先に感じる。心地よい。そこからは早かった。頬に、額に、顎に瞼に肉が触れる。やわらかい生ぬるさ。高まっていた鼓動が次第に穏やかになっていく。落ち着きが心を満たす。
 皮膚を隔てて自身の肉と生肉とが互いに引き合い、一体となる。
 目を開く。まつ毛が窮屈に押し曲げられる。肉に開けた小さな穴から自分の狭い部屋が見える。部屋は奇妙にぼやけて見えた。散らかった衣服や、敷きっぱなしの布団、食べたまま放置されたカップラーメンなどの輪郭があいまいに溶けて混ざり合い、色彩の塊になっている。
 そうか、と得心する。
 世界は本当はこんなにも曖昧にできているのだ。物と物との境界はつまるところ、これとこれとは別のものであるという認識が作り出しているのに過ぎない。自分でないものの肉と自分の肉が一体となった視界の中では、その境界は薄く柔らかなものになっていた。
 薄汚れたカーテンの隙間から外を覗いてみる。日の沈んだ通りを数人の通行人が通り過ぎるのが見えた。街灯の明かりに照らされたそれらの顔はやはりいずれも曖昧で同じような顔に見える。
 まるで一様に肉の仮面をかぶっているかのように。
 
 いつの間にか空腹は消え去っていた。顔に張り付いた生肉の感触が五感や欲求の境界をも曖昧にしたようだった。穏やかな眠気が脳みそを包んでいる。肉の仮面をつけたまま眠りにつく。Aは柔らかな肉の感触を顔に感じながら久しぶりの安らかな眠りへと落ちていった。
 
 それからAがどうなったのかはわからない。聞いた話ではそのまま職場に肉の仮面をつけて行くようになったとも、肉の仮面が手放せなくなりどこかへ失踪したとも、あるいは目が覚めて昨夜の自分の行いを後悔して肉の仮面を洗ってから焼いて食べたとも聞いた。
 けれども、それ以来私は時々思うのだ。今日遠目にちらりと見たあのお肉仮面はもしかしたらどこかに行ってしまったAなのではないかと。あるいは今日すれ違った人々のうちの幾人かはAと同じく一度肉の仮面を試してみてなんとか外すことができた者なのではないかと。


【おしまい】

※注
 専門家によると、お肉仮面を試みた者が肉との一体感を感じるのは、自分の肉と肉の仮面との成分が近しいからだという。例えば自分の体温に近い温度のお湯に触れているとお湯に触れているという感覚がなくなり、自分の体がお湯の中に溶けだす感覚を覚えることがあるだろう。基本的な原理としてはこれと同様で、性質の近いものに触れているとそれと一体になっているように錯覚を覚えることがあるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?