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自分が一番不幸だと思っていた

わたしは、小学生の頃から大人になるまで、自分が一番不幸な人間だと思っていた。


勉強もそこそこできたし、運動もなおのことできたし、顔もそんなに悪いわけではなかったと思う。

両親はとってもわたしのことを愛してくれていたし、放課後に遊ぶような友達もいた。


でも、わたしは自分が一番不幸な人間だと思っていた。


きっかけは、小学3年生の時である。

当時9歳のわたしは、授業中暇を持て余して、算数のノートにパラパラ漫画を書いていた。

ストーリーはよく覚えていないが、「うおーーーー死ぬ気だぜーーー!」とメラメラ燃えている人間が描かれていた。

家に帰り、それを見た母に怒られた。

「死ぬ気だなんて、書いちゃだめよ。本当に死ぬかと思うじゃない!」とガチで怒られた。

わたしは唖然とした。言葉を失った。

同時に、色々なことを理解した。



それ以来、母には母の想定の中に収まる「正しい」世界しかみせないことを徹底している。

母の理解できる、許容できる範囲のことしか話さないようになった。

つまり、ほとんど何も話さなくなった。

夕食は、同じ学校に通っていた弟と美味しかった給食の話をしてやり過ごした。


小学四年生で学級崩壊して、担任の先生が交代したけれど、当然の如くわたしにとっては母親には話さない内容だったのでそれも話さなかったら

ママ友から聞いたらしく、

「なんで教えてくれなかったの?え、[母の名前]さん知らんの?って言われて、恥かいたやない。」と言われた。


それでも、その先も母に話す内容は変わらなかった。


母親は、ご飯を食べれば「美味しいね」というし、わたしが部活の試合に負ければ、「残念やったね〜。」という。

試合に負ければ、残念だし、美味しいご飯は美味しい。確かにそれは「正しい」。

でも、それがわかっているから、部活の勝ち負けさえも言いたくなかった。

「残念やったね〜。」の一言で、わたしの負けた時の何とも言えない感情を表現しないでほしかったのだ。

試合に負けたらいつも、残念なわけじゃないのだ。

わたしが初めて試合に出て、負けちゃったけど嬉しかったかもしれないし、負けてチームが逆に一つになってまた頑張ろうという気になっているかもしれない。


わたしは、ずっと誰かに自分のことを理解してほしかった。

長年、好きな男性のタイプは、自分のことを理解してくれる人だった。

自分の生きる哲学は、「本音で生きる」だった。


でも、学校も母と同じだった。

国語では、「筆者はなぜこの時、〜と書いたのでしょう。」

はいはい、こう答えればいいんだよね。

読書感想文も賞をとった感想文を読み込んで、自分も賞を取った。

いつしか、大人たちが求めている「正しい」答えを書くのが得意になっていった。

母はこれを求めてるんだろうな、先生はこれを求めているんだろうな。

はい、それをあげますよ。

人生って空虚だなと思っていた。

でも、わたしはそこに全力で取り組んでいた。

だってそれが「正しい」から。

手を抜くという言葉も知らなかった。

わたしの生きる世界ではあり得なかったから。

(大学に入ってはじめて「サボる」ということを知った。)


ずっと、どうやって生きればいいのかわからなかった。

「こうではない。」と思っているのに、田舎の狭い世界では、どう生きていけばいいのかわからなかった。

誰も教えてくれなかった。

時間がかかったけど、今は少しだけ、生きやすくなった。

わたしは自分を表現をすることを大事にしたいと思っている。

「正しい」答えじゃなくて、自分が「本当にどう思っているか」を大事にして生きていきたい。

そういうことが本当にできるようになるまで、とっても時間がかかった。

でも、ゆっくりと、できるようになっていっている。



ここまで書いていてあれだが、わたしの母親はめちゃくちゃ愛情深い。

わたしは、これだけ人に理解されなくて苦しかったけど、誰かと生きることを諦めようと思ったこともなかったし、

どう生きれば自分が幸せになるのかもがき続けていた。

つまり、幸せになることに、生きることに、希望を失わなかった。

それは、母親がずっと愛してくれたからだ。

こんなにも何にも話さないわたしのことも、ずっと愛してくれた。

思春期にわたしと話したがる母親に、わたしが怒鳴ってしまった時も、母親は抱きしめてくれた。

兄弟と比べられたことも一度もないし、嘘でもママ友にわたしの悪口をいっているのを見たこともないし、「あんた、だめね。」なんて一度もいったことがない。

ただまっすぐに、いつもいつも、わたしを愛してくれた。



小さい頃、母とバドミントンをした記憶がある。

わたしはとても下手くそで、永久に羽を母のところまで飛ばすことができなくて、羽が頭上に飛び続けていた。

イライラしてもおかしくないのに、何度も優しく、「網の部分をお母さんの方に向ければいいのよ〜」とできるまで待ってくれた。

わたしのほうが諦めそうなくらいだった。


大人になって、わたしはこんなにも愛されていることに気づいた。

母親のことを拒絶し続けて、愛されていることにも気づかなかった。


ただ、母親とわたしの、捉えている、理解している世界が違うだけだった。

でも、それはわたしにとって、とても重要なことだった。

だから、自分のことを一番不幸だと思っていた自分のことも否定する気はないし、当時は本気でそう思っていた事実は消えない。



わたしは、実は「愛」という名前だ。

みんなに愛されるように、みんなのことを愛せるように、と両親がつけてくれた。

世界一いい名前だと思っている。



わたしはいま、自分が一番不幸だと思っていない。

お母さんからもらった、たっぷりの愛情がわたしの生きる源となって、

毎日、とても幸せに生きているよ、お母さん。



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