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「障害者運動の歴史を描く書籍の刊行記念トークイベント」を観て思う介護職に就く原点は?!

重度訪問介護の職に就く前はこれまでの転職と違い即応募に至りませんでした。それは重度訪問介護を経験しただけにそこで起きる「やりがい(魅力)」と「大変さ」を知っているだけにしっかり時間をかけて検討しました。

その決め手の1つになったのが「安積遊歩さんの【このからだが平和をつくる】重度訪問介護への招待状」の電子書籍でしたのでトークイベントを興味深く視聴しました。

書籍から安積遊歩さんは運動家で厳ついイメージがありましたが対談を観て優しいお姉さんを感じました。

そして障害者運動家との酒を飲んでの議論対話で私が20代に福祉に対して純粋な気持ちで新規授産施設(現就労移行継続支援事業所)に入った当時を思い出しました。

当時は障害者を助けるイメージで入所した所が障害者支援団体と言うか「差別と戦う障害者運動」の団体でした。

他の団体との大きな違いは能力による賃金制の「給与」ではなく、共に働く仲間として健常者や重度障害者の区別なく時間単位で配分され「分配金」と呼ばれるものがありました。

右も左も解らないうちに種々の障害者運動の場に行く毎日で夜な夜な酒を飲みながら障害者運動の理念とあり方がメンバーで議論されていましたが、私は全く分からずに描いた福祉像と大きく異なる事で1年半後位に離職しました。

当時は人不足で介護を何も知らない私が車椅子の方を食事に寄って自宅まで送迎したりしていました。

その体験があったお陰で障害を持った方と違和感なく関われ、時にはろう者数人と同室で泊まり皆さんに気を使わせた事もありました笑

その後はボランティア活動で障害者と関わっていましたが、全国の工事現場の作業や監督仕事が楽しくて段々と下火になってきました。

40代後半の時に当時の施設長から「訪問介護のアルバイトをしないか?」の電話があり面談を行い着任しました。訪問介護といっても利用者は昔ながらのメンバーで20年以上経っても当時の面影がありスムーズに入れました。

そのアルバイトがきっかけで50歳を区切りにそれまでの建築業から福祉(介護)職に変わりました。人生は人との出会いで大きく変わります。 

もし20年前のあの団体と出会わなければ、そして1年ちょっとで離職しなければ、更に1本の電話が無ければ現在の私は無かったように思います。

私は障害者運動家のように強い理念と行動力があるわけではなく、社会人1年生の時のろう者と出会いそして難聴者との出会いで「聴こえ難いが故の大変さや孤独感」を知り大きなショックを受けた事が全ての始まりだったようにも感じます。

「ひとりぼっちの人をつくらないためにどんな障害を持った方とも関われるスキルを付けたい」と無意識で思っていた事を今思い出されます。

その道筋はボランティアとして手話から始まり要約筆記そして点訳、最後に盲ろう者ガイドヘルパーで終わりかと思っていた所で介護職への転職でした。

障害者(児)支援·介護や高齢者介護を経て職場は違えども最初の5年を務めた(重度)障害者介護の職に戻ってきました。個性的な発達障害の方やダウン症の方を始め出会った(重度)障害者が魅力的な人ばかりだったのが今の介護職を続ける要因だったのかも知れません。


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