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「劇場」に閉じ込められて

 私たちがこの世に生まれ落ちたとき、周りにはすでにおびただしい数の他者が存在していた。その他者は、これから私たちが生きることになるであろう世界について、私たちよりもはるかに多くのことを知っていた。彼らは私たちのあずかり知らぬ間に「社会」をつくりだし、その劇場の中に私たちを座らせた。座席はすでに用意されていたのである。
 私たちはその劇場の中でさまざまな劇を見、ときには舞台に立って何かを演じたりもした。所与の社会のなかで私たちは、ありものの言語、ありものの文化、ありものの物質で満たされた空間にたえまなく浸されつづけてきた。
 私たちは、これに抗うことはできない。知らぬ間にできあがっていた世界のシステムから逃れることはできない。世界全体を覆う国家の目から完全に自由になることはできない。この社会で生まれ、この社会の一員として烙印を押された以上、「もう疲れたので、降ります」ということはできない。私たちはつねに劇場に幽閉されているも同然だ。
 ただ、一つ忘れてはならないことがある。たとえこの地球が一つの大きな劇場であり、そこから逃げ去ることは絶対に不可能だったとしても、他の劇場に足を運び、いままでの社会の色に染め上げられたおのれをまた別の色に染め上げることは可能だということを。透明になることはできなくても、違う色に染まることはできるということを。
 この世界は劇場でひしめき合っている。日本という劇場。ヨーロッパという劇場。アフリカという劇場。学校という劇場。職場という劇場。家庭という劇場。田舎という劇場。江戸時代という劇場。小説という劇場。深海という劇場。劇場とは、ある等質的な表象がその全体を覆う小宇宙のことである。未知の表象に満たされた劇場の扉を開けたとき、自分が別の色に染まり始めていること、そして、今まで一つの色に染まっていたことを自覚することができる。
 劇場は、あるいは自らが何らかの形で属する社会は、自らの想像力の限界と言い換えることができる。他の劇場を訪れるということは、自らの想像力の限界から抜け出し、新しい可能性に触れることである。
 ほかの劇場は、なにも遠いところにのみ存在しているわけではない。私の身の回り、私の想像力が及びうると思い込んでいたところにも、わからないこと、把握しきれないことがゴロゴロと転がっている。今まで同じ劇場の中にあったはずの空間が、また新しい劇場となって、その扉が閉ざされる。今までなに不自由なく過ごしていた劇場は、こうして新しい劇場で埋めつくされることになる。私たちがせねばならないのは、私たちの劇場は想像以上に狭いということを知ること、そして、想像力の範囲を広げていこうと努力することである。言い換えれば、新しく劇場ができたことを自らの了見の狭さゆえの失態と捉えるのではなく、むしろ、おのれを解きほぐし、新しい自分へと編みかえていく好機だと捉えることが必要なのである。あなたの想像力の翼が広がれば広がるほど、あなたが見る世界はどんどんカラフルになっていく。
 異なる世界が存在する可能性に思いを馳せれば、ちがう劇場に立ち寄ってみれば、あなたの世界は褪せることのない鮮やかさにつつまれるのだ。

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