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Episode 544 理由を知るのは大事です。

諄いようですが、何度も記事に書いている通り、私は教育学部の出身なのです。
結果として教職には就かなかったですし、そもそも教師になろうと思っていたかどうかも怪しいところですが、教育に興味がない…ワケではないのです。
特に私自身がASDだと自覚して自己理解を深めていく過程で、学生時代に学習したことや社会人になってから経験したものごとの考察方法などは、私の思考に大きな影響を与えていると感じています。
ここ最近で思うのは、明治維新以降の教育改革がもたらす日本式教育体制の功罪と発達障害者の関係性…という辺りでしょうか。

日本がなぜ強権的な「軍隊式教育」へ舵を切ったのかは、産業革命後発国であるこの国を、産業革命を終えて資本主義社会の勢力拡大を目指す欧米先進諸国の植民地支配から守り、独立した主権を維持するためだった…と説明しました。
詳しくはリンクから過去記事に飛んでいただくにして、この「軍隊式教育」と障害者の合理的配慮の相性は「すこぶる悪い」というのが今回のお話です。

前回の記事で、「配慮」とは、機材や位置取りを調整することでマイノリティの生活の不便を緩和することで、享受する側と享受される側の「合意」の上で成り立つ、その上で「合意した配慮」の定期的なメンテナンスが必要である…と指摘しました。
具体的には、環境への慣れや仕事の習熟によって当事者の熟練度は刻々と変化し、それに合わせて周囲から当事者への期待値も変化する…ということです。
「仕事は『できる人』のところに集まる」というのは、周囲の期待値が高い人に仕事が集中する…ということでして、その期待値というものは「周囲の方が当事者の仕事ぶりをどのように見ているか」によって決まるのです。
期待値が高まれば、それだけ「当初の合意」からズレている…と言うことですね。
そのズレを放置せずに「配慮」の見直しを行い「合意の修正」をする必要があるよ…と、そういうことです。

つまりね、目標地点になる「達成点(P1)」と、その達成点に到達するための「配慮」を、お互いの合意の上で決めて、一定のタイミングで「達成点(P1)」への到達度を確認し、次の目標地点になる「達成点(P2)」と、その達成点に到達するための「配慮」を、お互いの合意の上で決めて…というサイクルを回すということです。
このサイクルと日本式教育体制の相性が「すこぶる悪い」が故に、学校教育で合理的配慮の理解が進まないのだと私は考えます。

以下、ツイートは次のように続きます。

②逆にマイナス側で、目標値に届かない場合も、適切な課題再設定を行わず、高い目標値を押し付けることになる。

①②共に背景にあるのは、「学齢における平均的発達段階」による教育目標の設定が、個人の達成目標にすり替えられる…ではないかと考える。

つまり、「学齢における平均的発達段階」は、基準となる参考値ではなく、一律に個人目標の達成点になるワケで、目標値の再設定作業は、決められた目標到達点を破棄して作り直す作業…ということになる。

合理的配慮を求める前段階で、合意していない目標値が既に設定されている…ではないかと考える。
学齢ごとにあらかじめ、合意していない目標値が設定されているとすれば、学年が上がるごとに、目標到達点を破棄して設定を取り直す作業が必要になる…つまりこれが「申し送りの不備」に繋がる項目ということだろうか。

結果として振り出しに戻る…という構想的な問題が見えてくるということかと思う。

このツイートが、私の思う「学校教育で合理的配慮の理解が進まない大きな理由」です。
その下敷きになるポイントは、明治時代の学制改革以降、脈々と受け継がれる「軍隊式教育」の名残りだと、私は思うのです。
足並みを乱れることを極端に嫌う教育体制は、日本が主権を持った独立国家として生き残るための秘策だったのは間違いないと思います。
ただ…何度も指摘しているように、軍隊式教育のメリット/デメリットはあり、独立を維持できる程に全体の学力レベルを上げて思想を統一してまで達成した近代化・工業化の裏には、未だに教育的課題に暗い影を落とす問題があるのです。

残念ながら、これが「日本式教育体制」と「障害者の合理的配慮」の相性がすこぶる悪い…の正体だと思うのです。
これが根本的に改善されることが一番望ましい…でも、簡単にはいかないのも事実でしょう。
だから、「なんでこうなっているのか」の構造を知って欲しいのです。
構造が分かっていることは、必ず「交渉すべきポイントの把握」に役立ちます。

振り出しに戻ってガッカリするかもしれません…が、引き上げるべきポイントは「学齢による目標到達点の破棄」と「個別の到達点の設定」に絞られるハズだと、私は思うのです。

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