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Episode 575 穴は塞がらないのです。

ふと「障害って何だろう」という基本的な問題に立ち返った時、社会生活を送る上で不具合となる部分が障害なのだ…と考えるのが一般的な考え方なのだろうと思います。
でも、本当にそうなのでしょうか?
マイノリティというと仰々しく感じるかもしれませんが、要するに少数派という意味合いでマイノリティを考えたときに、「多数派の有利な世の中」での少数派の不自由は多々存在するというお話を以前にしました。

このマイノリティの不自由がマジョリティの生活に支障をきたした時、その不具合を指して「障害」と呼ぶ…と言うことです。
つまりね、「マジョリティの生活する社会」という基準からこぼれ落ちた部分が「障害」になるワケね。

この「障害」を取り除く方法は、
①障害が出ないようにマジョリティ側が社会の仕組みを変える。
②障害が出ないようにマイノリティ側が自分の行動を制御(制約/制限)する。
…というふたつが考えられるのです。
ただ前者については、社会的仕組みの変更…というマジョリティが便利な世の中になるように作りあげてきたものと逆行する可能性があって、一筋縄にはいかないのが現状だと思います。
それ故に、後者を選択しながら社会にマイノリティの権利を主張していく啓発を並行して行う…というのが現実的な選択になるのだと思うのです…ここまではキレイごと。
現実的には、「マイノリティの不自由」は、マジョリティからの視点だけではなかなかわかり難いのですよ。

努力して努力して「上手くやろう」とすれば、障害があっても一般の端っこに潜り込める可能性はあるけど、その努力量は障害の程度に含まれないのね。
要するに「見掛けの同調力」が、真っ先に障害の判断基準になってしまうワケ。
努力量による消耗は考慮されないのですよ。

世の中はマジョリティに有利に出来ている…どんなにマイノリティである私の権利を主張してみたところで、現状の社会認識以上の主張が通るワケがないのです。
だから「諦めろ」といっているのではないですよ。
私の主張は一朝一夕には通らない…長い年月をかけて訴え続け、納得していただく努力が必要なのです。
今の現状は、10年前に比べて多少なりとも進歩しているでしょう。
10年前に比べて「発達障害」という言葉の認知度は上がっている…やっとそれから「発達障害とは」というところに最初の一歩が出たところ。

私は現状の社会で、できる限り不都合がでないように「努力」をした上で、より生活しやすくなる支援をお願いすることになるワケです。
ところが、この「努力」というのが曲者なのですよ。

私の努力は、あなたから見えない。

先のツイートで示した通り、あなたが見ているのは「努力して不都合が出ないようにした結果」だから、努力を以ってしても抜けてしまった場合、その努力は認めてもらえないワケですよ。

ASD思考で自我のコントロールが難しい、それ故に自分の意見に忠実か、あなたの意見に従うかの二択を迫られる白黒思考が私を支配する…というのは私にとってデフォルトの仕様であり、そういう考え方がネイティブな思考パタンなのです。
この思考を止めることは、ネイティブな思考であるが故に難しい…これを完全に抑え込むことは不可能に近いと私は思うのです。

発達障害は先天的な障害ですから、努力しても社会一般の普通の人のように出来ない部分が存在します。
そこを意識して慎重にカバーするように生活していても、ポッカリと開いた穴にウッカリ落ちてしまうことを100%回避することは…出来ないでしょうね。

必死でその穴を回避する、落ちる回数が少なくなってくれば、あなたは「理解した」と思うのかもしれませんね。
でも、先天的にない部分なので、穴は開いたままなのですよ。

一方であなたは「理解した」と思っているから、穴は埋まったと思っているワケですよ。
そのタイミングで「ASD的なネイティブ思考」がポンと飛び出せば、あなたは私の「理解」を訝しがるでしょう。

違うのですよ。
そこには「日本語ネイティブスピーカー」と「英語ネイティブスピーカーの日本語」ぐらいの差があるのです。
仮に、一般的な社会で暮らす人が「日本語ネイティブスピーカー」だとして、あなたが私に求めるのは「日本語ネイティブスピーカー」としての理解です。
でもマイノリティの私のネイティブ言語は英語で、日本語はネイティブではないから、英語にあって日本語にない「言い回し」や「表現」に変な違和感が出てしまうことがある…とでも言いましょうかね。
そもそも、それぞれの言語にはニュアンスの差があるのは当然でして、だからこそ翻訳文学など、翻訳者の解釈の仕方で表現が大きく変わったりするワケですよね。

日本語と英語の話は理解しやすいように出した例え話なので、実際の私は英語ネイティブではありません。
ただ、必死で覚えた第二言語としての日本語で、「日本語ネイティブスピーカー」としての理解を求められるのはキツイ…そう思いませんか?

障害者を支援する立場に立つ人に、
障害者とともに生活する身近な人に、
是非とも障害者の「努力」がどのようなものなのかを知って欲しいのです。
そして、違和感が出たときに「理解できてない」とガッカリせず、ウッカリ穴に落ちたのだ…と、手を差し伸べてほしい、私はそんなことを思うのです。

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