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Episode 697 共有するのは環境です。

1966年に発表された、まど・みちお作詞 山本直純作曲 の童謡「一年生になったら」は、幼稚園や保育園などの卒園式などで今も歌われ続けているのでしょうかね。
1970生まれの私も、幼稚園時代に歌った記憶があります。

耳馴染みの良いメロディに、簡潔で分かりやすい歌詞、まど・みちお先生も、山本直純先生も、子どもたちが笑顔で歌ってくれることを想像して、この曲を作ったのでしょう。

ただ、この歌が発表されて50年以上経つ現在になっても尚、この歌詞についての議論は続いている様です。
「友だち100人」の込められた、みんな仲良くの想いをどのように読み解くか…。

大変素晴らしいnote記事に出会いました。
◎shio◎さんの「友達100人できるかなの刷り込み」という記事、そこには筆者である◎shio◎さんの「友だちが上手く作れなかったしんどかった気持ち」と、しんどさを作り出してしまった大人たちの子どもに対しての想い、これから先の子どもたちへ私が気にかけること…が、優しい言葉で簡潔に表現されていました。

私は生まれ持ったASDという特性ゆえに、社会やその社会性を育てる目的も兼ねた「学校」で、世間が期待するようなコミュニケーション力を育てることができませんでした。
先日からの記事でお話ししているように、私は生食に向く「スイートコーン」ではなく、乾燥させ挽いてトウモロコシ粉にすることに適した「デントコーン」であったのです。

私は学校には通ったものの、多くの友だちを作ることができない、ちょっと「変わった子」だったのです。
ただ、私が小学生だった昭和50年代…世間にはまだ「発達障害」や「ASD」と呼ばれる以前の「アスペルガー症候群」などという自閉傾向についての知識はないに等しく、ひたすら普通に合わせることを求められた、極端に言えばそんな時代でした。

「一年生になったら」の、その歌の価値観は、私の子ども時代の価値観をストレートに表している、用意されているルートとして、スイートコーンを甘く美味しく食べる方向に成長することを期待されているように思います。
その時代、トウモロコシの品種によって用途も調理法も異なるなんて、誰も知らなかった…知っていたとしても極少数の方に限られ、知識の一般化には遠く及ばなかった、私は私自身もデントコーン (ASD) であることを知らず、必死でスイートコーンになろうと努力したのだと、過去を振り返ってそう思います。

それから半世紀が過ぎようとする、今の時代は少なくとも私の子ども時代よりも発達障害に関しての知識は一般化したと思う一方で、◎shio◎さんの記事が今年 (2023年) 2月の日付である点に、変わらない世界観も感じてしまいます。

ここ最近の「インクルーシブ教育」や「(ニューロ)ダイバーシティ」に関する話題で気になるのは、この旧態依然の「一年生になったら」の感覚のまま、これらの「新しい概念」が馴染むのか…ということです。
極端で乱暴な言い方になってしまうけれど、スイートコーンの中にデントコーンを混ぜて、スイートコーンのやり方で美味しく仕上げて…は、難しいだろう…と。

このツイート(…と、もう言わないのかもしれないけれど)は、次のように続きます。

人間だれしも好き嫌いがありますからね、みんな仲良く友だち100人とか、無理ですからね。
それを偽ってでも和を強調しようとすれば、苦手を隠して合わせる努力をするでしょう。
悲劇の発端はASD資質にだけあるのではなく、嫌いや苦手を言い出しにくい環境もあろうかと、私は思います。

スイートコーン (定型) な世の中で、スイートコーンとして生きることが求められれば、デント (ASD) であることを認めるのに恐怖が伴うでしょうし、デントを自覚してもカミングアウトには勇気が必要になるでしょう。

私はASDの一当事者で「専門家」ではありません。
その当事者の感覚として、「インクルーシブ」や「(ニューロ)ダイバーシティ」で重要なのは、場所や環境を共有することで、考え方/物事の進め方や価値観の共有ではない点のように思います。

場所や環境を共有して、そこにスイートコーンとデントがある…が「普通」の状態であることが重要なのだと思います。
当然、個人的な好き嫌いはあって当たり前だし、その中で苦手があるのを認めて距離を置くのも方法として間違いではないワケで。
苦手の範囲が個人によって違うのは当然…なら、何かの権力によって引かれた線とは違う場所でそれぞれが線を引き、範囲を決めることになるよね。

これができていれば、「一年生になったら」の歌詞の解釈は大きく変わるだろう…と思います。
友だち100人は、ひとつの環境(社会)として成り立つワケで、みんな仲良しではなくて、環境をシェアするチームになる…かな。

半世紀ほど前、「巨人・大鵬・卵焼き」という時代、娯楽も限られ、豊かさを求めて人々が同じ方向を向いていた時代…と言ったら叱られてしまうかもしれませんが、少なくとも今のような多様性を追える時代ではなかったと思います。
この雰囲気を引き摺るから、「一年生になったら」の歌詞に ◎shio◎ さんの感じた不安を見る人が多いのだろう…と。

違う考え方を持つ人が、同じ環境の中に「普通」に存在する、その両者に優劣はない…が実現されていれば、デント (ASD) の私はデントであることを隠す必要はないワケです。
この状態で結婚のようにパートナーシップを結ぶようなこと、その相手を探すのなら、いわゆる「カサンドラ」の問題は大きく減る(改善する)でしょう。

いつか「一年生になったら」の解釈についての議論が、価値観の押し受けと見られることなく、インクルーシブとダイバーシティの視点を加味した、好き嫌いの距離感も内封した「ワンチーム」的な方向に落ち着いてくれたら良いな…と、私はそんなことを思うのです。

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